読谷山万事始 その5 ”サンシンの巻”渡久山朝章
沖縄の音楽は「サンシン」の音楽であると言っても過言ではない。音楽を練習することを「サンシン」を習うとも言う通り、「サンシン」なる言葉は音楽をも総称するからである。
ところで「サンシン」のことを三味線と書いたり、蛇皮線と表したりすることも多く見受けられるが、やはり沖縄の物は「サンシン」と書いた方がよいのではないか。三味線と聞くとすぐ頭に浮ぶのは四畳半でトンツルシャンと響いて来るあの猫の皮のヤマトムンである。「サンシン」はやはり力強くトゥントゥンテントゥンと響かなくてはならない。
さて「サンシン」及び三味線の始はどうであっただろう。ものの本によると「三味線」がもともと中国でサムシェンと発音する楽器であり、それは中国から沖縄に渡米し「サンシン」となり、永禄年間に沖縄から大阪の堺へ伝来した」ことは間違いないようである。「その三絃を当時琵琶法師が演奏することになって、琵琶の揆(バチ)をそのまま流用、胴を蛇の代わりに犬や描の皮に替え、サワリ等の装置を工夫して、今日の日本独特の三絃を完成した」ようである。
ではこの三絃が沖縄へ来て「サンシン」となったのは何時のことであろうか。残念ながら筆者も分らないけれどもそれを始めたのは我が村生まれのアカインコであることに異論をさしはさむ者はあるまい。ここにも我が先祖のすばらしさに敬服せざるを得ないのである。鳴響む(とよむ)読谷山だ。楚辺で生まれ、楚辺クラガー伝説とも深くかかわり合う彼の出生は、当時から謎めいた所も多いが、それだけ彼が非凡であったことを物語るものかも知れない。
彼はこの世で(沖縄で)始めてクバの葉の骨(葉柄か)と馬の尾で「サンシン」を作り、長じては吟遊詩人として沖縄各地の邑々里々を歌い歩き、最後はアカヌクーのグーフ(巌の頃)から昇天したと言われる。
うたとさんしんぬ 昔始まりや インコネアガリの 神の御作
彼の伝説からすると、彼の一生はそれこそ波乱に満ち、大変なものであっただろう。
これからすると彼はわが村の、否全沖縄の「サンシン」と歌の鼻祖たるに留らず、世相を歌い、未来をも啓示した吟遊詩人(マイスタージンガー)、即ち社会啓蒙家、木鐸であったことも見逃す訳には行かないだろう。
弥勒世(ミルクユー)を迎え「サンシン」の高鳴りを聞くとユンタンジャンチュたる私の心は喜びに打ち震える。偉大な人を村の先祖として持つ誇りからである。
そういえば戦後から今日までわが村には民謡や古典の大家が目白押しである。先祖のすぐれた音楽性を豊かに受けたためだろうか。
※写真は原本参照