読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1978年10月発行 広報よみたん / 10頁

読谷山万事 №11““鍵ばん楽器について”” 渡久山朝章

読谷山万事 №11““鍵ばん楽器について”” 渡久山朝章
 一口に鍵ばん楽器といってもその種類は多い。ピアノ、アコーディオン、リードオルガン、電子オルガン、鍵ばんハーモニカ等々がよく使用されているものだ。
 この中でわが村に最も早く取り入れられたのはオルガンであろう。この事は学校にはオルガンさえあれば、唱歌の時間には何とか事足りるからである。そしてこの鍵ばん楽器は、今日の学校音楽の場でも器楽指導の要として最も大事な役割をになっている。
 ところでこのオルガンが我が村で何時頃学校に取り入れられたであろうか。この場合私は速断を避けたいと思う。なぜなら戦前、村内には学校が三校あり、どの学校にオルガンが先にとり入れられたか不明だからだ。このことを波平の知花寺次郎先生にお尋ねしで見ると、先生が小学生の頃からベビーオルガンと中型のものが各々一台はあったという。
 そのようなわけで戦争直前におけるオルガンの数は一校平均四台位で、二~三台の中型力ベビーオルガンに一台のストップ付きだった。
 戦後は勿論何もなかった。コザあたりの学校に米軍の野戦用折りたたみオルガンがたまに見かけられる程度だった。この様な時代、昭和二十一年十二月頃、読谷初等学校に中古ではあったがスピネット型スタインウェイのピアノが届けられた。これは読谷村移動先遣隊(神谷乗敏隊の監視隊長)が米軍からゆずり受けたものである。米軍クラブで廃棄処分となり、残波の崖から捨てられようとするのを貰い受けたといわれる。これに手を加え、どうやら演奏出来るようにした人が新崎盛業氏(比謝矼)であった。このピアノは当時の殺伐とした時代にあってはすばらしい音色を校庭に流したものである。やがて米軍政府の援助により各学校に日本製の中堅オルガンが入り、昔ながらのなつかしい音を響かせた。
 鍵ばん楽器について特筆大書さるべきことは新品ピアノの入荷だろう。それは一九五五年十月、戦災校舎復興期成会(会長屋良朝苗氏)の募金による本土からの愛の教具である。わが村には古堅小中学校にピアノが入った。当時七万二千B円という金額の大きさにビックリしたものだが、校長の山内繁茂氏(大湾)は「学校で一番よく使われるのはピアノだ。金額は大きいように思われるが、在籍数と使用頻度で割るとそれ程大きい投資ではない。その分、生徒たちの音感、リズム感の向上として還元されるよ」とおっしゃった。けだし名言であろう。すこし遅れて読谷中学校が創立七周年記念事業の一つとしてピアノを購入した。これには長浜真徳氏(長浜)に負う所が大きかった。
 今や村内ではどの学校でもグランドピアノを始めとして二~三台のピアノ、電子オルガン、数十台のデスクオルガンを持つに至っている。全く今昔の感にたえない。

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