読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1979年12月発行 広報よみたん / 4頁

米軍落下傘降下演習事故に対する抗議並びに演習場の撤去を要求する決議

米軍落下傘降下演習事故に対する抗議並びに演習場の撤去を要求する決議
 1979年11月6日、午後6時15分頃、読谷飛行場における米軍の落下傘降下演習による事故が発生した。この事故は起るべくして起った人為的児故と云わなければならない。米軍は読谷飛行場を占領以来今日まで軍事基地として34年間一方的に使用して来た。演習場になっている読谷飛行場一帯は、住民地域の真っただ中にあり、そのような状況の中で平然と行なわれてきた米軍の降下演習によって村民の生命、財産はたえず脅かされ、危機にさらされてきた。
 1965年6月11日、自宅(親志)の庭先で遊んでいた棚原隆子ちゃん(喜名小4年)がパラシュートによるトレーラー落下演習によって圧殺きれたいたましい事件を忘れることは出来ない。その後も字座喜味、喜名、伊良皆、高志保、読谷高校等住民地域に何回となく落下傘による米兵や固形物が落下して来た。このような演習をこれ以上許しておくと必ず第二の隆子ちゃん事件を引き起す結果になる。村民の間に再び犠牲者を出さない為にも、村民による総決起による抗議と演習場の撤去が基本でなければならない。村民は今日まで忍び難きを忍び、耐え難きを耐えてきたが、今回の事故はその限度を越えるものである。読谷村の再三再四の中止要求にも耳を傾けない米軍と政府関係当局の安易な態度によって今回の事故は引き起されたのである。一歩あやまれば一大惨事につながる事故で、民家からわずか13.5mの地点に7㎏の鉄のおもりをつけた落下傘が投下されたのである。
 これに対し、米軍はその非をあやまるどころか「目標地点に投下したパラシュートを誰かが発見現場に持っていったのではないか」と全く言語道断し、村民を愚弄した発言と断ぜざるを得ない。
 村民は戦争の中をやっとの思いで生き抜き今、平和な生活を願っているのである。そのような村民の頭上に、人家の上に平然と落してくる米軍演習を許すわけにはいかない。沖縄県民の生命を軽視し、住民地域の中で反省もなく演習を続行してきた米軍に対し、怒りをこめて強く抗議する。
 更に、読谷飛行場一帯の環境はもはや、米軍の落下傘の演習場としては不適当な場所であることは、衆目の一致するところであり、関係米軍でさえ「せまくて、適当な場所とは思わない」と明言しているのである。読谷村民は、今回の事故のもつ意味の大きさを深刻に受けとめ、村民の総意を結集し、米軍の落下傘降下演習事故に対し、厳重に抗議すると共に、今後、読谷飛行場内における米軍の一切の演習を廃止し、即時軍事基地を撤去するよう強く要求する。
 右決議する。
  昭和54年11月13日
米軍落下傘降下演習事故に対する抗議並びに演習場の撒去を要求する村民総決起大会

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