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1984年4月発行 広報よみたん / 1頁

広報よみたん 1984年 No.287号 4月号 この子等の21世紀のために美しい「楚辺兼久浜」を残そう

広報よみたん 1984年 No.287号 4月号
村政の目標 人間性豊かな環境・文化村づくり
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この子等の21世紀のために美しい「楚辺兼久浜」を残そう
 青い海、青い空、きらめく太陽にひときわ映える美しい砂浜「楚辺兼久浜」。村内でも唯一の砂丘をとどめ、延々つづく白い砂浜は一キロ近くにもおよぶ。
 旧暦三月の「浜下り」から盛夏の海のシーズンには、一帯の兼久浜は内外から大勢の人でにぎわい、人間本来の姿、はだかのつきあいを演じる、いわば「村民いこいの浜」として、その名は広く知られるようになりました。
◎-だが、その美しい浜辺「楚辺兼久浜」に今!、何が起きようとしているのだろうか-。そうです、またもや米軍が横着にも同ビーチを占有化、一人占めしょうとしているのです。まさに、ガキ大将が弱い者いじめをしているが如く、村民という名の親は、横着な青い目のガキ大将に「弱い者いじめはだめヨ」と悟すが如く、兼久浜の米軍占有ビーチ化に強く、反対の姿勢をとっています。
◎-楚辺兼久浜には戦前同区の馬場があり、旧暦四月アブシバレーともなれば内外の競争馬ダービーで沸き立ち、子供たちには駄菓子、おもちゃ市でにぎわいまた「ソベポーポー」ゆかりのアブシバレーは、兼久浜に起因することが多い。一方、同地は先の大戦において沖縄本島地上戦の火ぶたを切った、米軍上陸地点になったところであり、戦後三十九年、今だに米軍用地として接収されたままだが、これまで出入りは自由で、さほど不自由は感じえなかった。
◎-だが米軍は「階級の低い兵士のレジャー施設」として兼久浜の専用ビーチ化を計画、楚辺区に農耕者および区民を締め出すことを通告してきた。一方、かの悪名高い米陸軍特殊作戦部隊、別名「グリーンベレー」のトリー通信施設への再配備が明るみになったいま、兼久浜の占有化計画は無関係ではなさそうです。グリーンベレーの名は「泣く子も黙る」といわれるほど恐れられ、別名「殺戮の悪魔」と名付けられています。ベトナム戦争時におけるグリーンベレーの暗躍は、いまなお私たちの記憶に生々しいものがあります。
◎-その悪名高いグリーンベレーが、今!まさに私たち村民の前に姿を現わそうとしています。この子等の二十一世紀のためにも、決して米軍の意のままにさせてはいけない。「母なる海」「母なる大地」を村民自らの手で守り、「米軍の楚辺ビーチ拡張並びに特殊作戦部隊配備」に断固阻止し、村民総決起いたしましょう。(関連十四・五頁)

※写真は原本参照

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