昭和55年10月、日米合同委員会は読谷飛行場の演習場移設を合意した。
読谷村民は、演習場の移設が昭和62年までに実現するものとして期待していた。ところが、その期待は実現せず、その約束を守ってない日本政府(那覇防衛施設局)に対し、大きな怒りを覚えるものである。
ましてや今年に入って、激増するパラシュート降下演習は、欠陥機と言われるCH53ヘリコプターの使用、OV10ブロンコによる超低空飛行による訓練、高高度からの訓練はしないと約束したにもかかわらず、それを実施し、住民地域への降下等、読谷村は真に戦場のような状況を呈している。住民地域の上空を無神経に飛行する演習は、いつ事故が起るか知れない不安な状況になっている。
また、今年の4月から毒ガス、核兵器を想定し、防毒マスクの異様な装備をした新たな演習としての滑走路損壊査定訓練は基地の固定化につながるもので、読谷飛行場問題解決を後退させるものであり、到底容認できるものではない。
演習がある度毎に数多くの村民が抗議をくりかえしてきた。最近の激化する米軍演習は、あまりにも常軌を逸したものであり、3万村民の生命と財産を守る立場から断じて許されるものではない。
読谷村民は戦後43年間、筆筈につくしがたい米軍基地の被害を受け、また読谷飛行場については未だ戦後処理がなされてない現状である。
読谷飛行場をめぐる問題として、米軍のパラシュート降下演習の中止や演習場の移設問題をはじめ、同用地の戦後処理を求めて何回となく要請を重ねてきたところである。要請の結果、政府として、昭和61年2月7日総理大臣(中曽根康弘氏)は、読谷飛行場の問題解決策として「地元の土地利用構想を尊重しつつ、沖縄振興開発特別措置法の趣旨を踏まえて対処してまいる所存である」旨、国会へ報告した。ここに戦後処理事案として読谷飛行場問題の解決策が総理大臣によって最終的に示された。
これを受けて読谷村は昭和62年7月、読谷飛行場転用基本計画を策定しその事業実現をめざしているところである。読谷村の中心部に位置する読谷飛行場用地は、本村の産業、経済、スポーツ、教育、文化等、21世紀に向けたむらづくりの拠点となるところであり、この用地の返還は読谷村民にとって必要欠くことのできない村民的課題である。読谷飛行場用地のこのような状況を踏まえ、米軍の演習激化と演習場の移設が遅々として進んでいないことに強く抗議するとともに次のことを強く要求する。
一 日本政府は、日米合同委員会で合意した演習場撤去(移設)を早期に実現せよ。
一 村民の生命財産をおびやかす米軍のパラシュート降下演習、滑走路損壊査定訓練を即時中止せよ。
一 戦後処理としての読谷飛行場用地の早期返還を実現せよ。
以上決議する。
一九八八年八月三日
米軍の演習激化に抗議し演習場の即時撤去並びに読谷飛行場用地の返還を求める村民総決起大会
宛 先
沖 縄 県 知 事
沖 縄 県 議 会 議 長
那 覇 防 衛 施 設 局 長
在 沖 米 総 領 事
在沖米海兵隊基地司令官
在 沖 米 陸 軍 司 令 官
在 日 米 軍 司 令 官
内 閣 総 理 大 臣
外 務 大 臣
防 衛 庁 長 官
防 衛 施 設 庁長 官
衆、参 両 院 議 長
アメリカ合衆国大統領殿