諸言
暗いトンネルにも輝かしい出口が!!
復帰後、読谷飛行場用地所有権回復地主会をはじめ、読谷村、読谷村議会は正式に、日本政府と国会及び米軍に対し「戦後処理問題であり、一日も早く解決されたい」との、数限りない陳情・要請を重ねてきた。それは正に関係者の血のにじむ十年間の訴えであった。
日本政府も、陳情・要請の主旨を受けとめ問題解決の姿勢を示したのである。それは直接の当事者である所有権回復地主会の要求通りではないが、政府の立場と地元所有権回復地主会の立場をそれぞれ考慮した「和解案」ともとれる「開発計画に基づく解決案」が昭和五四年六月一日参議院沖特委において沖縄開発庁長官(三原朝雄)によって提示されたのである。
これを受けて、所有権回復地主会は、昭和五七年五月に「読谷飛行場転用計画策定会議」を発足させ、読谷村は、昭和五八年五月「読谷飛行場転用計画調査報告書」をまとめ、更に昭和五九年三月「読谷飛行場転用計画審議会」を発足させ、昭和六〇年一一月「読谷飛行場転用計画答申」を受け、村長はこの答申を「読谷飛行場転用計画」として政府関係機関に提出したところである。
このような経過の中で総理大臣(中曽根康弘)は、昭和六一年二月七日「地元の土地利用構想を尊重して対処する」旨、国会(衆議院議長坂田道太)に報告した。ここに戦後処理事案としての読谷飛行場問題の解決策が総理大臣によって明確に示されたのである。これに対応すべく読谷村は「読谷飛行場転用基本計画」を策定した。……。
さいわいにも復帰一五年目にして、紆余曲折はあったが、やっと日本政府、沖縄県、読谷村という行政機関の間に共通の理解ができあがった。それが今回の「読谷飛行場転用基本計画」である。これまでも遠く困難な道程であったが、これからは具体的に一つびとつ詰めていく作業であり第二次沖縄振興開発計画期間内に一定の芽出しをし軌道に乗せることを目票としている。
戦後処理事案としての読谷飛行場転用基本計画であり、それの解決のために法制度が最初から完備されている訳でもないので、既存の法制度で活用できる分は活し、活用できない部分については政令改正を求め更に関係機関の意思の疎通を密にし、新しい発想に立って問題解決がスムーズに進展することを期待するものである。
戦後処理問題には、戦中、戦後の人々の血と涙・苦労と犠牲が凝縮された問題であるだけに、それに関わりを持つ人々の態度は真撃でなければならない。
この基本計画を具体的に進めていく仕事は、正に世紀の大事業である。今までの暗いイメージ「戦争→抑圧→基地→犠牲→事故、事件→被害」から、新しい二一世紀への希望にもえた明るいイメージ「戦後処理の実現→戦争の鉄鎖・抑圧・苦悩からの解放→夢とロマン・希望と自信」へと変わり、黄金の花さく拠点形成となるのである。
それだけに困難な問題も予想されるのであるが、地元読谷村内にあっては戦争体験を有する世代と戦後世代を含めて、又、飛行場関係字出身も、その他の方々もそして旧地主関係の所有権回復地主会員も、黙認耕作をしている人々も、全ての村民が心を一つにして、知恵を出し、協力し、理解し合い”みんなで読谷飛行場の戦後処理をしよう”という心が大切であり、問題解決の鍵となるのである。そのことをお互いに肝に命ずることにしよう。読谷飛行場を作ったのも人間であったが、その跡地に人間の生存と平和のための計画を打ち立て実現させ得るのも、また人間である。
戦場への道は長く凄惨であった。戦争は人間性を喪失させ理性を失わせるものである。壮絶な闘いが終ってあと、焦土の中から人間の理性と知性の芽が再び回復しはじめた。我々はこの体験を通して尊いものを学んだ。人間の理性と知性を失わすことのない平和創造の努力を怠ってはならない。
昭和六二年七月二〇日
読谷村長 山 内 徳 信
読 谷 飛 行 場
転用計画審議会
昭和五十九年三月二七日発足以後昭和六十年十一月十三日まで十一回の審議会を開催して同年十一日十五日読谷飛行場転用計画について村長へ答申する。
委員構成は、村議会議員・役場、学織経験者・農業委員・教育委員読谷飛行場用地所有権回復地主会読谷旧飛行場耕作者の会・村内諸団体長・村内経済団体長・地域関係字区長の計三二名、審議会々長伊波栄徳”答申”については広報三一一号(六一年五月)の特集号を参照下さい。