読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1989年6月発行 広報よみたん / 6頁

昔なつかしアブシバレー 比嘉恒健(楚辺) 【写真:袴姿の騎手と飾りたてた宮古馬】

 楚辺のアブシバレー(畦払い)は、旧暦四月十五・十六日に行なわれます。
 十五日は、サキ(先)アブシバレー、十六日はアト(後)アブシバレーということで、特に十六日のアトハブシバレーは盛大に行なわれましてね、チュハルナーイジッチ(畑で一仕事終えて来て)、牛や馬の草刈り、また芋掘りなんかして、ヤー(家)に来たら(帰ったら)、アンマー(母さん)達がヤーで「ポーポー」を作っているんですよ。その日に限ってのポーポーは、すぐマンタカシーナー(丸ごと)食べられたので、大変嬉しかったですね。
 それで、そのポーポーを食べてから午後は、楚辺兼久での馬ハラシー(競馬)がありますので、その馬ハラシーを見物する為に、部落中の人達が、弁当をひっさげ、老若男女出かけて行くんですよ。その馬ハラシーをする楚辺兼久は、現在のアメリカさんが使っているビーチの所で、今のようなあんな砂浜ではなく、青々と芝生がいっぱい生えていて、とても美しい緑の広場でございました。
 明治四十三年頃は、古堅小学校区の運動会もその広場で行なわれていましたし、明けて四十四年の読谷山村三校の運動会もそこで行なわれたとのことでした。
 その時には、五千人程の人が集まったと言われているんですよ。その様な広さがありましたから、馬ハラシー競争は、トラックコースまで作って行なっていました。それを催すのは、中部地区に、「中頭ウマビットー組合」と云う組織があったらしいんですけど、その組合が主催していたそうです。また、この競技に出場する馬は、すべて宮古種の馬で「ナーク馬小一と称して、背は低いけれども小回りが利いて、競馬に向いていたようです。ですから殆んどナーク馬で、飾り付けも前ふさをつけて、馬具を乗せ、カザイムングェー飾りたてたくつわ)をはめ、それに乗る騎手も馬袴を着け、ハチマキをキリッと締め、それはもう、見事なものでした。褒美は、タオル等が賞品として準備されていた様に記憶しています。
 一方、兼久のチビといったんですけど、その広場の西の方では、馬ミー(競馬見物)の人をめあてに、比謝矼をはじめ那覇あたりから来た店が出て、おもちゃや、お菓子等を広げたテナントが立ち並んで隣村や、中部、山原(北部)あたりからの見物人の目を楽しませてそれは、それは賑ったものでした。私も、子供時代に、百連発というピストルの形をしたおもちゃを買って帰ったことを覚えています。その頃のおもちゃをイメージする言葉に、「ビービーバンバター」と言ったんですけど、あちらでビービー、こちらでバタン、バタンと言ったので、その様に言われたんじゃないかと思います。
 その日、兼久浜に下りた人数は八千~一万人位いたんじゃないかと聞いています。このように、アブシバレーは、楚辺部落にとって年に一度の大イベントでございました。馬勝負が終了してからは、今度は、若者達の「すもう」の番です。昼間の賑いをそのまま夜に残して、それはもう大さわぎでした。その日、楚辺の各戸では、他シマ(他部落)から、知人、友人の訪門を受け、ポーポー等のごちそうを出して接待しました。そのおかげで、スビポーポーが有名になっていったようです。このように、アブシバレーや、今なお受け継がれている楚辺ポーポーは、伝統文化として、我々楚辺の誇りだと賞賛します。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。