読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1989年7月発行 広報よみたん / 4頁

誕生 初の名誉村民 屋良朝苗氏 金城次郎氏 【写真:昭和58年11月30日村勤労者野外施設落成記念式典にて:昭和60年6月17日金城次郎の世界展-村総合福祉センターにて-】

 初の名誉村民
    屋良朝苗氏

 読谷村議会(儀保輝和議長)は、去る六月議会定例会(十二日から十六日迄)において山内徳信村長の推薦した元沖縄県知事・屋良朝苗、陶芸家の人間国宝・金城次郎の両氏を名誉村民とすることに全会一致で同意決定しました。

 戦後、屋良朝苗氏は、教育再建を足掛かりに次々と諸条件整備に落手し、戦災復興の道を開拓。すさみきった県民の心に一点の灯をともす。米軍統治下にあっても屈服する事のないその反骨精神そして、人情味溢れる人柄は人々の心を捉え、「祖国復帰」への大衆運動が展開されたのである。昭和四十三年初の公選主席として就任、そしてついに昭和四十七年五月十五日悲願の祖国復帰が実現、新生沖縄県知事屋良朝苗が誕生。復帰前後の歴史的転換期にあって、行政の最高責任者として経済、社会等のあらゆる分野に手腕を発揮。その功績は顕著であり、偉大である。政界の第一戦を退いた今でも、指導`助言を仰ぐ為、氏の允を訪れる後進達は跡を絶たない。

 明治三十五年十二月十三日、読谷村字瀬名波に生まれる。
 苦学の末、大正十四年読谷村初の高等師範学校(広島高等師範学校・現広島大学)入りを果たす。
 戦後復興の道を教育開拓に向け昭和二十二年田井等高等学校の教官をはじめに、知念高等学校長として学校運営にその手腕を発揮。
 昭和二十五年、沖縄郡島政府文教部長に就任。教育関係法規の整備を成し、米軍統治下にありながらも全沖縄小中高校長会の名において「日本復帰」の決議を採択。教科書問題、研究教員制度発足。
 昭和二十七年、沖縄教職員会長に就任。以来十六年もの長い異民族支配下にあって、主席公選制と自治の拡大要求、基本的人権の擁護、平和と民主主義の闘い、布令布告撤廃要求、教育研究大会を通しての教育向上、発展、教育基本法の立法化、へき地教育の振興、義務教育費の国庫負担要求等々数限りない。同時に戦災校舎復興促進期成会会長として、国会はじめあらゆる団体に陳情・要請の全国行脚。
 昭和二十九年四月二十九日、祖国復帰期成会を結成、会長に就任するや全国的な問題として提起。
 昭和三十三年七月一日、沖縄タイムス文化功労賞受賞。
 昭和四十年八月、佐藤総理大臣が訪沖の際「沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらない。」と声明せざるを得ないまでに条件づくりを果した。
 昭和四十三年二月一日、アンガー高等弁務官は琉球政府行政主席の公選を発表、十二月一日屋良公選主席誕生。行政の最高責任者として国政参加の実現、B52撤去及び毒ガスの撤去、祖国復帰の目途づけの要請と復帰体制づくり、栽判権の移管要請、一ドル対三百六十円の通貨交換等々数限りない。
 昭和四十七年一月八日、サンクレメンテで日米首脳会談が開催され、沖縄の施政権返還を同年五月十五日と決定、共同声明が発表された。二十七年余の長きに渡る苛酷な異民族支配に終止符が打たれる事になる。県政移行後は、格差是正の為の生産基盤整備や社会資本の拡充強化を図る。その推進役となったのが三大プロジェクト(全国植樹祭、若夏国体、海洋博覧会)であり、更に沖縄振興開発を主軸として県政は推進された。
 昭和四十八年四月七日、戦後の教育復興、祖国復帰の実現に尽力された業績により、サンパウロ州立総合大学より「サンフランシココ・デ・アシース章」受彰。
 昭和五十一年九月十五日、琉球新報賞受賞。
 昭和五十二年五月十五日、行政主席、初代沖縄県知事として、祖国復帰の推進とその実現に尽力し新生沖縄県の社会、経済、教育、文化の向上発展に貢献した業績により、沖縄県知事から復帰五周年を迎えた機会に、特別功労者として感謝状を受ける。
 昭和五十六年三月十六日、那覇市より名誉市民として顕彰される。
 昭和五十七年四月二十九日、勲二等旭日重光章(地方自治功労)受章。
 県発展の為、半生を捧げ尽力されに功績は顕著で偉大である。

金城次郎氏

 名誉村民条例は、村民及び本村に縁故の深い方で、公共の福祉、若しくは学術技法、産業経済の進展に寄与し、もって村民の生活及ぴ教育文化の発展に貢献し、その功績が顕著で、村民の敬愛を受けている方を顕彰するものです。

 金城次郎氏の独特な線彫り魚文や海老文は、多くの人々に親しまれ、躍動感溢れるその作品からは温かく力強い沖縄の風土がかもし出され、土と炎の最高傑作と言える。その素朴でダイナミックな作風の中に卓越した技法、非凡なる才能を見い出したのは、浜田庄司氏ら日本の巨匠達であった。彼らとの出会いは伝統的壷屋陶芸への誇りと認識を強化させ、その道の最高峰にまで到達させた。
 登り窯への一途なこだわりは、やがて書名焼発祥の地読谷に移り住む事になり、「ヤチムンの里」づくりの担い手として大きく貢献、読谷村民に夢とロマンを与えた。
 黙々と作品に取り組むその姿からは、人間国宝としてのおごりなど微じんも伺えません。

 大正元年十二月三日、那覇市与儀に生まれる。
 大正十三年二月、十三歳で陶工見習いとして壷屋入り、沖縄の伝統工芸ヤチムンの世界に第一歩を踏み入れたのである。以来六十有余年、土をこね災と葛藤する中で、一徹なまでにヤキモノづくりにこだわり続けてきました。
 氏は大正から昭和初期にかけて沖縄に訪れた柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司氏ら日本民芸運動の指導者の知遇を受け、その非凡な才能が郷土沖縄の土着の中で育まれ、素朴さ、おおらかさ、力強さを兼ね備えた真に身抜一体となった逞しい作風を生み出し、その卓越した技量と温厚篤実な人柄は、琉球陶器そのものを表現し、「ヤチムンの父」と呼んでも過言でない。
 氏は、昭和二十九年の第六回沖展に工芸部門が創設されて以来連続して出品する一方、運営委員として後進の指導育成に尽力して来た。国展はじめ日本民芸館等数々の展示会等積極的に出品参加、その回数は実に百回を越え、その情熱溢れる創作活動は篤異的で県内比類のない陶工である。琉球陶器の幅広い技術・技法を内外に紹介しつづけ、遠くルーマニアの国立民芸館、ギリシャの東洋美術館に各二点永久保存されている程である。
 昭和三十六年、第三十回国展において国画会員賞を受賞、同年国画会会友に推挙され、続いて昭和四十四年の第四十三回国展において会友優秀賞を受賞、その年の日本民芸館展に出品した作品が、見事に日本民芸館賞に輝いた。昭和四十八年には国画会の会員となり昭和四十九年、日本陶芸巨匠展に出品。
 昭和四十七年、陶器づくりの伝統的技能保持者として「沖縄県無形文化財」の認定を受け、昭和五十二年には「現代の名工」として労働大臣より表彰される。そして昭和五十六には陶器製作技能功労者として勲六等瑞宝章を受章、昭和六十年四月ついに「琉球陶芸の幅広い技法に精通し、それらの技術を巧みに生かした作品を製作している」点が認められ県内初の「重要無形文化財技能保持者」いわゆる人間国宝の認定を受けたのである。
 那覇壷屋では伝統的な登り窯が焚けなくなったことで昭和四十七年、氏が読谷村座喜味に窯を築き作陶活動を続けて以来、かつて沖縄の古窯としてその歴史と伝統を誇った喜名焼き発祥の地読谷に、新たにヤチムンづくりの基礎を築き、その後の「ヤチムンの里」へと発展させ、文化村づくりの一翼を担う読谷村の顔の一つとして定着。そのことによって、国内外から要人や文化人その他多くの人々が来村するようになり、人的交流の場として貴重な役割を果たすなど村発展に大きく貢献。

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