読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年6月発行 広報よみたん / 9頁

【見出し】読谷山風土記(八) 読谷山村役場 渡久山朝章 【写真:読谷山村役場】

 写真は読谷山村役場で、昭和二十年四月、米軍による沖縄上陸作戦の直前までほぼこのような姿をしていた。
 いかにも古さを感じさせるものだが、それもそのはず、この本棟は読谷山番所といっていた時代からの建物であったという。
 元役場史員宮本万次郎氏は「役場時代の思い出」という手記のなかで、
 「本棟は文政十二年(一八二九)に建築されたのである。その構造は木造亙葺平屋槙木材を使用し建坪は五十二坪五合にして、役場の執務については村長室と事務室は本棟の四十坪(間延坪も加算)会議室は十二坪五合であった。終戦当時の昭和二十年(一九四五年)まで凡そ百二十五年以前の建物であり、その工事費の内訳は座切間の敷居の裏に筆字で単位は昔の貫で書かれていたのである」と述べている。
 時代の変遷とともに役場も昔の建物のままではその機能を十分に発揮できるわけはない。
 前掲の手記をさらに追うと、「旧会議室は腐朽により昭和十年村長比嘉幸太郎氏の時代に改築せり構造は木造亙葺平屋杉材を使用し近代的に建築坪数は二十坪でした。毎年事務が増加するにしたがい職員も増員すると共に昭和十一年には木造亙葺平屋の十八坪の事務室を建築する(原文のまま)」ということがあり、昭和十六年には十二坪の養蚕室を建てたということも見える。
 手記を更に追うと役場の中では、村長・助役・収入役と書記十人、農業技手一人、林業技手二人の計十六人が執務していたという。
 内務の事務分掌は庶務と財務に分かれ、更に主任制度に細分し庶務・会計・戸籍・兵事勧業・字事・衛生・国税・県税・受付等に分掌され、文字通り読谷山村の政治の中心であったのである。 村役場は、その前は間切番所(まじりばんじゅ、または単にばんじゅ)と呼ばれていたが、明治四十一年(一九〇八年)沖縄県及島嶼町村制実施によって間切が町や村という名に変わったことにともない、村役場という名称になったのである。
 そうなると喜名にあった読谷山村役場という名は、戦火で消滅するまでわずか三十七年間しか存続しなかったということになるわけである。
 読谷山村役場跡地は、戦後米軍用地に接収され、役場再開にあたってはついにその栄光の座を他に譲らざるをえなかった。
 その後、跡地は村営の圃場にするトラクターにより撹乱され、更に一九七四年国際海洋博覧会関連工事の一環としての国道拡張工事に当り、中央部分から新国道が走り二つに分断されるという憂き目を見るに至った。
 今では旧県道側に残った低い石囲いと入口右側に立つ「読谷山村道路元標」という石柱で昔の役場の面影をしのぶだけである。

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