読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年11月発行 広報よみたん / 8頁

【見出し】読谷山風土記(11) 尚巴志王の三代の墓 渡久山朝章 【写真:1】

 国道五八号線の東側、伊良皆の旧集落跡を奥へ奥へと進むと、うそうと茂った山に突き当ります。
この小山は佐敷森とも呼ばれ、中腹には第一尚氏王統三名の王(尚巴志・尚忠・尚思達)の墓があります。
 琉球の世の主(王)の墓がどうして草深い読谷の地にあるのでしょう、それには深いわけがありそうです。
 第一尚氏王統は尚思紹から始まり七代の尚徳で終わりますし『中山世鑑』という琉球の歴史書には、「尚徳は王としての徳がおさまらず、ひどい仕打ちで人民を苦しめる無道者だが、家来の者たちは恐れて諌めることもなく、人民の恨みをかい、二十九歳で亡くたった」という意味のことが書かれています。
 また伝説によりますと「尚徳は久高の祝女クニチャサの愛に溺れて城に帰ることを忘れているうちに革命が起こったことを知り、海に身を投げて死んだ」とも言われています。
 尚徳の死後、その子が余りにも幼いということで、王城内では次の王を決める大会議を開きます。
会議の最中、一人の老人が「物呉いしどぅ我が御主、内聞御鏡ど我が御主」と言いますと、集まった人々は「おうされ一」と唱えて内間御鏡金丸(後の尚円王)を王にすることに賛成します。
 そのことを知った尚徳王のお妃は、幼い子を抱いて逃げますが、金丸側の者が追いかけて母子とも殺してしまいます。
こうしてクーデターは成功し、内間御鎖金丸は尚円王となり、第二尚氏王統ができ上がります。
 さて、第一尚氏は首里城に近い慈恩寺を王家の廟としていました。尚徳王が亡くなった後、その寺での泣き声が王城まで達するという理由で、尚円はその廟を泊村に移させます。これは明らかに前王統否定、あるいは抹殺を計ったものかも知れません。
池端町の北西にあった第一尚氏のお墓、天山霊御殿(天山陵)も焼き打ちにされました。
 島袋源一郎著『沖縄歴史』によりますと、「一族の平田子や屋比久子らは夜中に御遺骨を末吉万寿寺の山林にかくし、さらにそこから浦添の城間へ移し、尚金福王の御骨はそこのシリン川原に葬り、尚巴志王の御遺骨は読谷山伊良皆村の東川佐久原に葬った」というようなことになっています。
 なお、尚忠王・尚思達王父子の御遺骨は喜名の東、竹山、慶念堂の洞窟に葬ってあったが、後に尚巴志王と合葬されたということも同書には書かれています。
 同地を訪れてみますと、岩陰を利用して作られたこのお墓は、いかにも第二尚氏王統の目を忍ぶかのような質素な造りですが、墓の門石には尚巴志・尚忠・尚思達三王の名が刻まれています。しかしそれも近世になってから刻まれたものかも知れません。

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