読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年2月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記(14) 読谷山教会 渡久山朝章 【写真:1】

 読谷山でのキリスト教の集会は、明治三六年(一九〇三)頃、当時、美里間切美東尋常小学校の校長であった比嘉保彦氏によって、読谷山間切波平村の彼の自宅で始められたということです。 比嘉氏はキリスト教の信仰に一生を捧げようと決心し、やがて教職を辞任して長崎の鎮西学院神学部で学び、明治四〇年(一九〇七)正式の牧師となって読谷山教会に赴任いたしました。こうして名実ともに読谷山教会が設立するのですが、これは沖縄県内では初めての農村キリスト教会でありました。
 教会はといっても当初は会堂もなく、比嘉氏の自宅や信徒の家を借りて集会を持ち、礼拝を行っていたようです。
 では読谷山教会の会堂はいつ頃できたでしょうか。記録がないので断定はできませんが、写真にあるような会堂が最初のものではなかったかと思われます。
 この会堂建築については、大正二年アメリカの農場主ヤコブ・シュワルツの遺志・遺産によって建てられたという説と、波平村のアシビナーで伝道集会をしていた宣教師たちが、帰国後募集し、その浄財で建てられたという説もあります。
 その頃の「琉球新報」によりますと、大正元年一二月二〇日に献堂式が行われたとありますので、大正二年というのは誤りでしょう。当時、読谷山尋常高等小学校の高等科生だった渡慶次の儀間玉永さんは、学校帰り献堂式の模様を興味深く見たと証言なさいました。
 こうしてみると、建築から献堂式まですいすいと進んだかに見えますが、そうではありませんでした。
 会堂の敷地を決める時、未信者たちのいやがらせやいろいろな妨害があって大変苦労したようです。そのような時、信徒の照屋梅岸氏の土地提供によってやっとけりがついたと言われています。
その敷地とは、現在日本キリスト教団読谷教会の会堂が建っているところであります。
 この教会堂は、総瓦ぶきで、材木はすべてチャーギ(イヌマキ)が使われ、その頃としては大変立派な建物であったといわれます。写真は昭和一〇年代に撮られたものでしょうか、長年の風や雨にさらされて外壁は大分痛んでいるように見えます。
 玄関左側に見える表札には「日本メソジスト讃谷山教会」と表示されています。
 昭和二〇年(一九四五)、アメリカ軍は読谷山・北谷の海岸から上陸してきました。
 上陸作戦の時の爆弾や艦砲弾は雨あられと降りそそぎ、この教会堂も焼失してしまいました。 アメリカ人の浄財で出来たというこの教会堂が、アメリカ軍の砲火で消え去るとは、何たる運命の皮肉でしょうか。

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