読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1993年7月発行 広報よみたん / 9頁

【見出し】読谷山風土記(30)遊び庭 渡久山朝章

 波平アガリジョー(東門)は、一六〇九年(慶長十四年)の、いわゆる慶長の検地の地割制度に際し、雑種地として約六〇〇坪が波平村に割り当てられたと言われています。それ以来、ここはジーンチュ(地人)たちの豊年祈願の場・憩いの場として親しまれ、大事にされてきました。
以上のことからすると、アガリジョー(東門)という呼び名は単なる東の門、東の入口ということではなく、門を入った広場一帯ということになります。
 広場にハタクンジマーチ(旗括立松)があったことは先月号でご紹介しました。この松と広場を隔てて相対し、ガジマルの巨木が枝を拡げていた所が今に残っています。
そこは道路面より四、五〇センチも高くなっており、ここがすなわちアシビナーの舞台となっているのです。
  (写真)
 新垣秀吉さんの『波平の村事』によりますと、「(ハタクンジマーチより)三十五年ほど遅れてがじゅまるの木が植えられたようだが、その成長も案外早く、松とがじゅまるが自然に調和し、緑豊かな松とがじゅまるの五枝の下にアシビナーができたのは、一七八○年で、それでアガリウフナ(東大庭)とよんでいた広場をもアガリジョー(東門)とよぶようになり(中略)(松とガジマルは)見るからに積年の風格を備え、波平部落の繁栄の歴史の変遷を見守る如く成長した」とあります。
 広場では六月カシチー(強飯)折目の日は字民総がかりの綱引きが行われ、舞台は晩の角力大会の急造土俵となり、七月十六日にはボーチカエー(棒技奉納)、八月十五日のジュウグヤーアシビ(十五夜村芝居)にはガジマルの植わった段上に舞台を設営し、広場一帯が観覧席となったのです。こう見てくるとアガリジョーは、それ自体がアシビナーだったわけです。
 戦争前、村内の伝統ある村々は例外なくアシビナーを持ち、旧暦八月十五日を中心としてムラアシビ(村芝居)を演じてきました。
 現今、民俗芸能研究の未曾有の高まりとともに各字ではその保存・研究`発表に熱心に取り組んでいます。
ところが村内ほとんどの字が戦争でかつてのアシビナー(遊び庭)を失い、字伝統芸能発表の場を設定するのにおおわらわです。伊良皆ではセメントで発表舞台を新造したと聞きました。
そのような中で、戦前からの伝統あるアシビナー(遊び庭)を保持し続け、今なおその場で発表できる幸せを受け継いでいるのは波平だけではないでしょうか。
 ということで、波平のアシビナーは戦前の原形を留めた数少ない貴重な施設と言えるのではないかと思います。

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