読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1993年10月発行 広報よみたん / 7頁

【見出し】読谷山風土記(33)読谷山小学校 渡久山朝章

 日本で近代学校教育制度が発足したのは明治五年(一八七二)の「学制」の頒布に始まると言われています。
 沖縄では明治十二年(一八七九)の廃藩置県によって、「学制」に基づく学校がつくられました。旧王朝時代から琉球藩にかけておかれていた国学は首里中学校となり、小学校が首里に三校、島尻に十校、国頭に一校設置され、那覇に師範学校が創立されました。
 明治十五年(一八八二)に至り、はじめて読谷山にも小学校が開設されます。当時喜名にあった間切番所(現在の役場)の一室を教室として開校されたということです。
そのころの学齢児童は一五六二人もいたといいますが、新しい学校には誰も入りたがりません。それで番所では各村(字)に割り当てると、村々ではクジ引きで決め、やっと間切全体で男子三十人の就学者を確保したということです。
入学を嫌がった訳は、学校に入ると働き手を失うとか、百姓には学問はいらない、あるいは大和学校は嫌だと言ったり、大和学問をすると兵隊にされ大和に連れていかれるという風評もあったということです。
それで間切番所では入学者に対し、年に麦を二、三俵支給して就学を奨励しました。
 さて、学校では佐賀県人の吉村先生、一生懸命教えますが、生徒は大和口(共通語)は分からず、先生は沖縄口(方言)を知らず、お互いにまったくチンプンカンプンだったようです。それで通訳として喜瀬という人を雇い授業を進めた、と読谷小学校の沿革史に書かれています。
 創立後一年目の明治十六年(一八八三)、学校は新たに敷地を求めて移転します。その場所が現在の喜名小学校がある所です。
その頃までの生徒はほとんど男子ばかりで、『沖縄県統計書』によると、女子は沖縄県全体でたった三人しかいなかったようです。
 明治十九年(一八八六)に小学校令が公布され、小学校は尋常科四年に高等科四年になります。そして明治二十九年(一八九七)に読谷山小学校に高等科が設置されます。これは画期的なことで、一つの間切(村)で高等科を設置したのは読谷山だけだったのです。
 明治四十四年(一九一一)、学校は村の中央部の座喜味前原に移転し、喜名は分教場となります。
 昭和十六年(一九四一)には教育法が改正され校名は小学校から国民学校に変わり、昭和十八年(一九四三)、日本軍の飛行場建設にともない、校地・校舎とも軍に接収され、学校は喜名の敷地に移りましたが、去る沖縄戦で六十三年の歴史の幕を一旦閉じました。
 写真は座喜味時代の読谷山小学校北側校舎です。校舎中央部は職員室で、左側が低学年の教室、右側は高学年の教室でした。運動場をはさんで南側にも校舎が立っていました。

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