読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1994年9月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷風土記(42)渡久山朝章 比謝川渓流の碑

 渓流とは、辞書によりますと「谷川」、あるいは「谷間の流れ」とあります。
 比謝川が渓流といわれるわけは、比謝橋から河口にかけては両岸が切り立った崖になっており、川はその間、つまり谷間を流れているからでしょう。沖縄では比謝川以外にはこのような情景をもつ川は見られません。
 このとうな流れは美しい景観を作り、県下に広く知られてきました。
 昭和三年(一九二八)の『沖縄県農林水産業政史』の「森林景勝地一覧」には次のように紹介されています。
 「本地域は沖縄八景の一にして嘉手納駅を下車し読谷山村字大湾に至る所忽ち眼前に幽邃(景色などの奥深くて物静かなさま)にして壮大なる景観を現出せるは有名なる比謝川にして架するを比謝橋と称し天然の美と人工の妙と加わりて誠に絵画を視るが如く路行く人の足を止めしむ、清流に船揖を浮かべば四辺の森林生茂し翠緑(みどり色)滴る如く懸崖(切り立ったがけ)丘崗(おか)等一身に聚め自ら絵中の人となり登仙(天に登って仙人になる)の思ひあらしむ、渓流を下れば琉球耶馬溪の称ある泊城の奇巌怪石(風変わりな形をした岩や石)を手にすべく又河には長汀曲蒲(長く続いた海辺)の眺望を擅にすることを得べし古より遊覧の地として知られ近時景勝開発に力を致すに至れり」
 昭和九年(一九三四)十二月一日の「大阪毎日新聞」は、那覇煙草小売人組合で懸賞募集中の南沖縄新八景の一つに比謝川が決まったことを報じています。
 写真はその記念に建てられた「比謝川渓流」の石碑で、現在の琉球バス停嘉手納出張所あたりに建てられていました。ところが一帯は戦争中アメリカ軍によって地均しされ、それが赤地歯科医院建設中に地下から掘り出されたのです。今では嘉手納民俗歴史資料室に保管されていますが、ご覧の通り二つに割れております。この石碑は時代の証言者であると同時に戦争被害者とも言えましょう。
 昭和十一年(一九三六)、沖縄観光協会では観光ルートを決定していますが、その中にはこの比謝川と残波岬が入っています。
 昭和十三年(一九三八)二月十六日の大阪毎日新聞に「延々三里に亘る渓谷公園実現・比謝川流域をパラダイス化」という記事が出ています。それによりますと那覇無尽株式会社の井上為一氏が、沖縄二景八勝の中で最も特徴のはっきりした比謝川流域に一大公園化を計画し、四月には遊覧バスの出現とともに南国のパラダイス化されるようとしているとあります。
 この計画の手始めに井上氏は両岸にデイゴの木を植え、現在の中病院のあるところには別荘も建ててありました。しかしこの公園計画事業は昭和十六年(一九四一)あたりからは全く動きがありませんでした。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。