読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1995年4月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】阪神大震災義援金募金 支援の輪広がる 募金と激励の手紙

 一月十七日早朝に発生した阪神大震災(兵庫県南部地震)は戦後最悪・空前絶後と言われ、一瞬のうちに高度都市機能に壊滅的打撃を与えるとともに、死者五千人以上という未曾有の被害をもたらし、日本中の人々を震撼させた。

支援の輪広がる

 この災害に伴い、被災地には海外を含め、全国各地から被災者救援の義援金や救援物資が寄せられ、ボランティアによる昼夜をわかたぬ自発的な救援・救助活動によって被災者らを激励し続けている。
 地震発生日の午前、本村には関西地区読谷郷友会の平安名常徳副会長から電話が入り、原理の被災状況が伝えられた。これを受け、村では一月二十五日~二十六日の間、山内村長と仲宗根盛良厚生課長が被災地・神戸に赴き、読谷村郷友会の役員らと共に被害の実態調査を行なうとともに、被災した郷友会の皆さんを見舞い、激励した。役場では三十一日に部課長会議を開き、村としての今後の対応策を協議し、その結果「精神的な痛手の回復を図ることが必要」と確認し、「村内の小、中、高校児童・生徒らで激励の手紙を書いて送る」ことを決めた。また、村議会(儀保輝和議長)でも被災者に見舞金を送ろうと二月六日に臨時議会を開き、五百万円の補正予算を全会一致で可決した。

募金と激励の手紙

 阪神大震災の被災者救援に伴う義援金の募集活動については、沖縄県共同募金会読谷村分会(山内徳信分会長・村長)や役場厚生課、読谷村社会福祉協議会などを中心に募金活動が展開され、学校職員やあ児童・生徒、PTA、各種団体、事業所などから物心両面にわたる数多くの善意が寄せられました。
 他方、「兵庫県には春の甲子園大会で大変お世話になった」と、当時の読谷高校野球部(島袋夏次OB会長)のメンバーや、その父母会(島袋朝男会長)では独自に義援金を募り、集まった三十五万一千円を村に託した(二月十七日)。
また、毎年夏に開催されるダンスフェスティバル全国大会で、二年連続日本一に輝いている読谷高校ダンス部(与那覇慶子顧問)は、「毎年、神戸の人達には親切にしていただいている。何か出来ないか」と部員らが自主的に話し合って『阪神大震災義援金募集のためのチャリティーダンス公演』(二月十七日・嘉手納町民会館)を企画。
公園は昼・夜の二回に渡って上演され、二公演とも村内外からの大勢の人々が訪れ、読谷高校ダンス部の華麗で美しい演技の数々に、観客らは惜しみない拍手を送った。公演で集まった義援金百十三万九百二十一円は全てが被災地へと送られた。
“被災地の皆さん頑張って”と村内の小、中、高校の児童生徒らが書き綴った激励の手紙の送付式が、二月二十日午後、中央公民館で行われた。
 手紙は、村教育委員会(伊波清安教育長)が各学校を通じて呼び掛けたもので、被災者を励ます手紙は九百二十二通に上った。送付式は村内五小学校の児童・生徒の代表や古堅、読谷の両中学校、読谷高校の生徒らが出席して行われ、送付式では生徒を代表して読谷高校ダンス部部長の仲野美奈子さんが「神戸の皆さんにはダンスフェスティバルで大変お世話になり思い出深いところ、とても残念に思う。私達は生徒なので物資面の援助は出来ないから多くの手紙を書き、精神面での支援をしようと思い立った。元のように元気になってくれることを願っている」と語った。 ”一日でも早く立直ってほしい”という児童。生徒らの願いを込めた手紙と併せ、各学校で集められた義援金百十六万二千九十円は、日本赤十字沖縄県支部へと送られた(二月十七日)。
 また、翌二十一日の午後には座喜味子ども育成会(喜友名昇会長)の子供たちが役場を訪れ、比嘉敦子ども会会長らが「少しですが震災者のために役立てて下さい」と三万円を託した。この義援金は同区の子供たちが、昨年十二月に開かれた「生涯学習フェスティバル県大会」で頂いた協力金(棒術の出演料)を届けたもので、「反省会で使うより阪神大震災の被災者のために役立てよう」と子供たち自身の判断で決められたもの
 なお村では、被災地の支援。活動に読谷村消防本部(棚原栄福消防長)の古堅正彦消防士を派遣する一方、本村には六世帯二十人が親類宅などに身を寄せた(後日、二世帯十一人は戻る)ことから、被災帰郷者に対して見舞金を贈るとともに、経営住宅などの住居の幹旋に努めている。 【お詫びと訂正】
 広報三月号中、海外放送情報サービス局からの阪神大震災義援金は、日本人従業員や軍人・軍属からの六万四千円の誤りでした。訂正してお詫び申し上げます。

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