読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1995年6月発行 広報よみたん / 9頁

【見出し】連載「私と沖縄戦」3 (シムクガマ避難者の証言) 沖縄戦終結50周年記念企画

波平シムクガマ=「米軍上陸の日」避難していた約千人の命を救った人々=

 微用兵の比嘉義雄(当時十五歳)は、読谷から島尻までの弾薬運搬を命じられていた。馬車に弾薬を載せて島尻へ。そこへ突然米軍機が飛来する。昭和二十年三月二十三日、米軍の空襲は沖縄本島全域を焼け野原にるかのような勢いであった。恐れおののき義雄は読谷へ逃げ帰る。避難したのはシムクガマであった。島尻方面に留まることなく、読谷にたどり着くことができた、そのことが彼の命を救うことになった。
 沖縄本島での最初の米軍の空襲が「十・十空襲」である。波平の人々もその日初めてシムクガマに避難した。ガマの南側にああった製糖工場も爆破され、そこに保管してあった日本軍の食料米が焼かれる。黒こげた米や焼け残った米がシムクガマの人々の避難中の食料にもなった。そらまめや芋が主食となっていたあの頃、米のご飯は嬉しかったと知花治緒(当時十二歳)も振り返る。ガマの入口は大きく中央を竹や松の木で覆い、両側を人間が通れるくらいに開けてあった。三月二十三日以降、人々はガマからでることが出来ず、夜になると家で炊事をしてガマに食べ物を持ち込むといった状態が続く。ガマの奥には湧き水がありそれが飲物用になった。

 「命の恩人」

 比嘉平治(当時七二歳)と比嘉平三(当時六三歳)は明治三十九年頃ハワイに出稼ぎにいく。平治は五年程で帰省するが平三は昭和八年に帰るまでいろんな職に就きながらハワイで暮らす。そのうち英語も話せるようになっていた。古里でも生活も一年、平三は再びハワイめざして神戸まで行く。しかし、戦況の悪化を予想して税関で「ハワイには行かない方がいいよ」との忠告に沖縄へ戻ってきた。
 四月一日朝、突然戦車砲弾がガマ入口で炸裂、三人が亡くなった。午後四時ごろ、最初の米兵がやってきた。朝の一発で米軍の威力を知らされた住民は錯乱状態であった。続いて三人、四人と続いて米兵はやってきた。入口近くにいた平治は平三を呼び寄せる。平三は人をかき分け米兵の前に立った。米兵は「英語が出来るか」「日本兵はいるか」と尋ねた。平三は「日本兵はいない」。米兵「どれくらい居るか」平三「約千人だ」。こんな会話が交わされたと治雄は証言する。米兵は住民に発砲することはなかった。みんなが出るまで約一時間くらいだった。外に出てみたら戦車や機関銃がガマの入口めがけて狙っていた。「その時はもう殺されると思った」と知花正行(当時十一歳)は言う。
 全員が東倉根の畑(シムクガマ西方)に集められ、その後都屋へ。海で殺されるのかと思った人々も多かった。十日ほどそこにいたが、家やシムクガマに荷物を取りに行くことはどういうわけか許された。義雄は、都屋から瀬名波、そして石川の捕虜収容所に移されるが、瀬名波にいるとき既に海岸線にボーロ飛行場が出来ていて、爆撃機や戦闘機がたくさんあったと証言した。米軍の素早い行動には驚かされる。

抵抗しない住民を
   米兵は殺すわけがない

 平三は、戦争になったら家族はみんな一緒に居た方が良い。ばらばらになって誰かが死んでもいやなものだ。死ぬときはみんな一緒だ。銃を持って抵抗するわけでもないのだから、米兵に殺されることはないよ、と口癖のように言っていたと治雄は言う。そして、平治と平三はチビチリのことを知り、シムクガマで助かったということは話さないようにしよう、と収容所でチビチリガマの遺族らのことを気遣っていたと言う。
 波平の人々は、命を救ってくれた比嘉平治、比嘉平三の二人の冷静な判断と勇気ある行動を讃えて五月末記念碑を建て立する。生きることの出来た喜びと感謝、そして二度とあの様な戦争はいやだという思いを込めて。
戦世んしぬじ 平和世迎えて
命ながらいて 村ゆ興くさ
最後に比嘉義雄は琉歌を詠んでくれた。(文中敬称略)
=記念事業特別取材班=

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