私は古堅尋常高等小学校の高等科を卒業して、看護婦見習いで喜瀬医院に勤め、その後兄の友人の比嘉眼科を経て与那原の嵩原医院(外科)へ移ることになりました。そこで「十・十空襲」に遭遇したのです。ちょうどその頃山原船が中城湾に入港していて、米軍の偵察機は白煙で暗号を送っているように見えました。その直後、米軍機は山原船をめがけて爆撃を開始したのです。入院患者のうち歩ける者は自宅へ帰るよううながし、残った患者は病院の防空壕に一緒に避難したのでした。夕方になると那覇と読谷方面の空が真っ赤になっていました。
数日たって嵩原医師も召集され、病院は閉鎖、私は牧原の実家に帰ることにしました。途中北谷で米軍の偵察機に見つかり機銃掃射を受けましたがフクギの大木に隠れ難を逃れたのでした。夜になって歩き出し、やっとの思いで家にたどり着いたら日本兵が投宿していました。屋良の球部隊の将校たちが中心でした。そこで昼間はその部隊の掃除や食事を作ったり事務の手伝いをすることになりました。しかし、その時の兵隊達は銃も十分になく、竹槍を持っているといった様子でした。これで戦争ができるのかなと真剣に思ったほどです。
手榴弾を手渡され
戦況の悪化で部隊は南部へ移動。兵隊達は、「もし捕虜になりそうな時には自決せよ」と十五人の女性たちに一個ずつ手榴弾を手渡して行ってしまいました。
四月一日、高台にある久保倉敷(地名)の大きな壕から出て米軍上陸の様子をうかがったのですが、ものすごい船の数、黒々とした戦闘機の編隊。その時、偶然にも長兄に出会ったのでした。徴用兵として軍と行動を共にしていた兄は腰を痛めていて動くのにも難渋しているようでした。一緒に山原への避難を勧めたのですが、日本人として軍と行動を共にしなければ子供達が惨めな思いをすることになるだろうと南部へと向かったのです。そういう教育でしたから…。後に兄は首里の弁ケ岳のガマの中で窒息死したことを、これも偶然山原の避難地で出会った兄の知人から聞いたのです。腰の悪い兄は、ガマの最深部にいて爆撃で入口を閉ざされたのです。入口近くの人々は自力でこじ開け呼吸をすることができたのですが、奥の兄はそこで息をひきとったということです。戦後その場所を確認して遺骨を拾い弔いました。
山原への避難途中金武の療養所の近くで、またもや米軍機の機銃掃射を受け、畑に伏せては、林めがけて一目散に走ったのです。けが人もなく十五名が無事家族のもとへ行きつくことができたのは正に奇跡としか思えません。
特に避難地での食糧難は苦しく持って行った着物はすべて芋や米にかわり、塩は海水を汲んできては夜中炊いて作りました。もう何もなかった。近くの畑で命請いをするように芋を分けて貰ったこともありました。さらにカタツムリを山原バーキ(篭)にたくさん入れて、きれいに洗って食べたこともありました。
六月ごろ、「沖縄の皆さん、もう戦は終わりました。早く山から出て下さい。」という内容の米軍の宣伝ビラが撒かれました。近くの喜如嘉の集落では、村人たちは道を悠々と歩いていて、山には食物もないしみんなで出て行くことにしました。
山から降りても多くの人々の死が・・・
喜如嘉の小学校は既に病院になっていて、平良医師のもとで看護を手伝うことになりました。食料難から栄養失調が多く、子供たちのお腹は膨れ上がり、大人も含めて毎日バタバタと多くの方々が亡くなっていきました。浜辺は人々の埋葬場と化しました。戦争は本当に恐ろしい、尊い生命がどんどん失われていく。言葉ではどうにも言い表わせない悔しさと怒りを感じました。
私は、戦争このかたまだふるさと牧原の姿を見たことがありません。屋敷内の防空壕には青春の思い出がいっぱい詰まったアルバムを残したまま。揚水地のすぐ側にあった屋敷は今でも確認できると思うし。せめてあのアルバムだけでも戻ってきてくれれば…。ふるさと牧原に帰らない限り自分の中の沖縄戦も戦後も終わることはありません。
-記念事業特別取材班-