私たちの家族は昭和二〇年二月には国頭村辺土名に避難していました。最初の頃は食糧の配給があり、家から持ってきたものもあって十分でした。空襲がひどくなった四月一日からはずっと比地山の山中で過ごしました。読谷の人々が二百名ほど一緒にいましたが、次第に食糧は底をつき木の実を探して食べるようになりました。このままでは全員が餓死すると読谷へ帰ることにしました。二見まで来ると米軍のジープに見つかってしまいました。初めて目にするアメリカ兵に驚き、私たちは担いでいた荷物を置き両手をあげました。しかし、アメリカ兵は何を言ったか分からないんですがその場を去って行きました。また歩き出して辺野古あたりに着くと今度は四、五人の日本兵に出会ったんです。彼らは「あとしばらくだから辛抱してね」と言い、辺野古の山に避難するようにと言うので二〇日くらいそこにいました。とにかく食べ物がない。このままではダメだと、またも読谷めざして歩くことにしました。途中で座喜味の人々に出会って「私たちは捕虜になっていて、食糧ももらっているよ。あんた達も捕虜になったら」と声を掛けられました。私は出征している夫に申し訳ないと反論しました。しかし、宜野座あたりまで来ると「避難民はここに」と書かれ指の形で方向を示した看板を目にしたのでその方向に歩いて行くと眼下に二、三百はあろうかと思えるほどの大量の避難民用のテントが張られていました。私たちも避難民として登録することにしました。六月一日でした。そこでは、米軍から食糧が与えられ、また病院の草刈作業やカヤ刈りに出るとおにぎりや食券がもらえました。
座喜味にいる頃は座喜味城の東側の斜面に各家庭で壕を掘って隠れていました。確か昭和十九年の夏ごろ作ったと思います。松林の中に座喜味の人々は競って壕を掘りました。
私は本当はもう戦争の話はしたくありません。夫は伊江島で戦死しました。最後の手紙も伊江島からでした。五〇年たって、月日はたっても、今ではこうして生活をしているけれども…。ただ夫が居てくれたら…。忘れることができません。島尻のように爆弾の苦しみは経験していない、とにかく生きながらえた。
「平和の礎」には夫の名前もあって参拝してきました。有難く思っています。あんなに立派にされて…。でも戦争の傷というのはいつまでも忘れることはないと思います。今後はいつまでも平和であることを祈るほかありません。全員で戦争反対、反対を叫んで自分達のような経験を絶対にしないようにみんな頑張ってほしいです。
私が結婚したのは昭和一六年、式も挙げることなく「サキムイ」、(酒盛り)だけ、ミシバーチ(ご馳走を入れる盆)に何かを盛り付けてそれだけでした。翌年に長男が生まれましたが、夫は一八年には兵隊に取られました。昭和一九年の一〇月八日には面会にきてくれました。一泊だけして九日にはまた本部へ出発しました。あの日が最後でした。二〇年一月にはたばこと貯金通帳だけは送ってくれました。何か記念になるものを残そうと思ったのかも知れません。でもその後の逃げ惑う山中で雨にも濡れいつしか手元からなくなってしまいました。写真の一枚もなかったのですが、座喜味の人が持っていた集合写真から夫だけを拡大して今でも持っています。主人がいてくれたらとほんとに今でも思います。
=記念事業特別取材班