読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1996年3月発行 広報よみたん / 11頁

【見出し】沖縄線終結50周年記念企画 連載 「私と沖縄戦」 =記念事業特別取材班= ー完ー 連載「私と沖縄戦」を閉じるにあたって 取材を終えて ”生きる”ことを優先させる

「私と沖縄戦」=記念事業特別取材班=
 広報「よみたん」では、沖縄戦終結50周年にあたり記念事業の一環として、「私と沖縄戦」と題するコラムを連載してまいりました。毎回、村民の方々のいろいろな沖縄戦体験を語っていただき、取材班で内容を取りまとめて掲載するという方式を採りました。最終回にあたり、連載を担当した取材班で総括することにいたしました。
 取材を通して一番心に残ったのは、沖縄戦の記憶だけがなぜか他の記憶よりも鮮明であるということでした。それだけ悲惨なものであり、鮮烈なものとして心に刻まれたことを意味します。そのことはまた、いつまでも消えることのない『心の傷』の存在を強く意識させました。私たちは、五十年余が経過し、その後の人生の中で、次第に癒されたかのように思っていた『心の傷』を更に掘り起こすかのような作業をこの一年積み重ねてきた感じがします。第九回の当山ヒデ子さんは「『平和の礎」には夫の名前もあって参拝してきました。有難く思っています。あんなに立派にされて…。でも戦争の傷というのはいつまでも忘れることはないと思います。」と語っておられる。また、第四回の宮城秀子さんは、毎朝仏壇にお茶をあげながら、「今の沖縄を見れずに残念だね」と生きている人に話しかけるかのようにするのが日課になっているとおっしゃっています。原稿にはなりませんでしたが、異口同音に語っていただいたのは「それは私が死ぬとき、あの世にそのまま持っていきますよ」ということでした。連載を終えてもこの『心の傷』をうまく表現できなかったことを反省しています。
 今回の連載を通じて多くの知らなかった現実を教えていただきました、サイパンでも「赤ちゃんが泣くからといくつもの壕を日本軍に追い出された」(第二回、玉城トヨ)や波平シムクガマでの比嘉平治、比嘉平三両氏の冷静な行動が約千名の命を救った(第三回、シムクガマ避難者の証言)などです。さらに、チビチリガマに避難していた上原豊子さんは、「この戦は必ず負けるから、死ぬことだけはするな。自分は草むらを這ってでもかえって来るからな。それまで、何としてでも子ども達を守ってくれ」という父の遺言を母が守って、『集団自決』の現場から立ち去ったという(第五回)、このことは私たちにとって一種の衝撃でもありました。それは「とにかく徹底した皇民化教育でした」(第七回)と当時教師として教壇に立った名城幸子さんが証言しているように、一八七九年(明治十二)の沖縄県の成立以来、徹底した軍国主義教育、天皇制教育のなかで沖縄の人々は、その教育が血となり肉となったそうした状況の中で沖縄戦を迎えたのだろうとの私たちの憶測を打ち破ったからなのです。あの当時に日本の間違った教育に毒されずに「生きる」ことを優先させた人がいた、というこの事実を大きく受け止めたいと思います。

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