読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1996年7月発行 広報よみたん / 2頁

【見出し】これ以上我慢できません! 基地問題関係

よみたん広報が特集号を組んだ理由は、四月の日米首脳会談で普天間飛行場の返還(五年~七年以内)が合意されましたが、しかし普天間飛行場の代わりに読谷村と恩納村に、またがる嘉手納弾薬庫地区と言われている地域(沖ハムの北側、ウトンガー、琉球村の南、ダムの東側)に三〇〇ヘクタール(90万坪)の新たな飛行場を日米両政府が作るということです。読谷村民は、自然環境をはじめ、生活、教育、文化、歴史、経済環境等を守り抜く為に壮大な闘いに入りました。子供連、青年達の未来が明るく希望のもてる読谷を創る為にも闘いは勝利しなければいけません。その為にも今までの読谷飛行場における闘いの教訓を学び生かす必要があります。
その為の特集号であります。
読谷村長山内徳信

沖縄県(琉球)の歴史は、わが国の中でどのような経過を辿ってきているのでしょうか。
かつての琉球王国は、武器を持たず平和を愛する守礼の邦・守礼の民と言われていました。
ところが一六〇九年(慶長十四)三月二十五日、大和の薩摩藩(島津)が今帰仁村の運天港を経て琉球に侵入し、武力で首里城を制圧し、琉球国王はじめ重臣を捕虜にして琉球を薩摩の支配下におき貢納(上納、貢租)を強いたとあります。
さらに一八七二年(明治五)には明治政府が琉球藩を設置したのをはじめ、一八七九年(明治十二)には廃藩置県のもとに琉球処分を行い、かつての「琉球国」は「沖縄県」という名称に変えられ、日本国の四十七番目の県となりました。
時代は明治から大正、昭和へと移り、わが国も次第に戦争へと突入していきます。第二次世界大戦(太平洋戦争)で、沖縄は本土の防波堤として位置付けられ、一九四五年(昭和二〇)四月一日の米軍上陸による地上戦によって子供や婦人、お年寄りなどの非戦闘員が戦火に巻き込まれ多くの尊い人命や財産が奪われ、沖縄は未曾有の惨禍に見舞われました。
日本の全面降伏により戦争は終結しましたが、一九五二年(昭和二七)四月二十八日に発効された対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)に基づき日本は独立を許されたものの、沖縄は日本と行政分離され、米軍の占領下に放置されました。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいます。
これ以来、米軍の占領政策(布令・布告)の下に、沖縄の土地は「銃剣とブルドーザー」によって次々に強奪され、広大な軍事基地が建設されていきました。これに対して沖縄の人々は沖縄の土地を守るため、不屈の闘志で米軍に立ち向かい、一九五六年(昭和三一)六月には島ぐるみ土地闘争を始めています。
一九七二年(昭和四七)五月十五日に「沖縄の復帰」が実現しました。
ところが、「核抜き本土並み」と言われた復帰の中身は、沖縄県内の米軍基地はそのままに、日米安保条約と地位協定によって引き続き軍事基地として使用するというもので、「沖縄県に米軍専用基地の七五%を押しつける」という沖縄差別の国策でしかありませんでした。
このことは、復帰後における政府の強権発動を見れば歴然としています。
沖縄の復帰を前にした一九七一年十二月三十一日、日本政府は沖縄の米軍基地を確保するために「公用地暫定使用法」を強行採決して強制使用を開始、その法律の期限切れ後は「地籍明確化法」(一九七七年五月十八日施行)を制定して強制使用を継続し、さらに一九八二年五月十五日以降は「米軍用地特措法」に基づく強権発動を繰り返して沖縄県の土地を強制使用し続けているのです。
この歴史的経過から、沖縄は①島津侵攻→②琉球処分→③米軍占領→④対日講和条約(二回目の琉球処分)→⑤日本政府による強制使用と”土地を強奪され続けた歴史”と言えましょう。特に戦後の歴史にあっては、アメリカの異民族支配下に放置されて二十七年、復帰して二十四年という半世紀にわたり、日本国憲法に保障された基本的人権と財産権が踏みにじられ、抑圧され、差別され続けた歴史と言っても過言ではないでしょう。
沖縄の歴史がそうであるように、読谷村もまた、今なお村の47%が米軍基地に占められ、軍事演習や基地から派生する様々な事件・事故に悩まされています。
諸悪の根源は米軍基地にあり、恒久平和を希求する読谷村民は、米軍基地問題に毅然とした態度で立ち向かっています。
このことから読谷村では今回、普天間基地返還に伴う読谷村域への新ただ飛行場建設問題に関し、断固として反対を表明し、村民共々にさらなる認識を深めるため、新聞記事(琉球新報、沖縄タイムス)などを引用し、過去における読谷村民の米軍基地闘争に関する「広報よみたん」”特集号”を発刊いたします。

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