読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

2004年10月発行 広報よみたん / 12頁

ボリビア「コロニアオキナワ」入植五十周年記念式典・祝賀会に参加して 読谷村長 安田慶造

ボリビア「コロニアオキナワ」入植五十周年記念式典・祝賀会に参加して
読谷村長 安田慶造

 南半球はいま冬の季節。とは申しましても南米ボリビアは沖縄の初夏を思わせる心地よい風が吹き、一年を通して半袖で活動出来るあたたかい地であります。
 ボリビア「コロニア・オキナワ」は今年入植五十周年の節目を迎えました。
 一九五四年にはじまる琉球政府の計画移民により第一次から一九次まで、合計五八四家族、三三八五人の県人が送り出されました。以来半世紀、開拓された総面積は沖縄県の全耕地面積に匹敵する広大なもので、牧畜をはじめ、小麦、大豆、とうもろこし等が豊かに実るボリビア有数の穀倉地帯として発展してまいりました。地平線の彼方まで広がるみどりの大地は現地でも二十世紀の奇跡と讃えられ、これを成し遂げたウチナーンチュの開拓魂は私たちの誇りとするところであります。
 しかしここに至る道程は言い尽くせない苦労の連続であったと伺っております。
 当初、第一次二七五名、第二次一二五名が「うるま移住地」に入植するも原因不明の熱病で一五人が死亡し、その後「パロメティア移住地」に移転するが、ここでも問題が多く、一九五六年にやっと現在の地に定住をする事ができたのであります。
 現在、コロニアに居住する日系人は約二三〇世帯、約九〇〇名、また国内各地から移り住んだボリビア人は約一万人以上ともいわれ、ボリビア政府は一九九八年に「コロニア・オキナワ」を行政区として認めオキナワ村役場を設置し、名実共にオキナワ村が誕生したことはこの上ない喜びであります。
 私たちの宿泊ホテルのあるサンタクルス市から北東約九五キロメートルに位置するコロニアまでの約一時間半、車窓からの景色は四年前の訪問時と比べると、往来する車の数も増えて住宅環境が良くなったとの印象で、年々発展している様子が分りました。
 多くの五十周年記念関連行事が行われる中、市町村会・議長会一行は八月十四日の記念植樹並びに歴史資料館の落成式、そして記念パレードと前夜祭に参加をいたしました。
 前夜祭の行われる広場では、カラフルな民族衣装を身にまとった出演者、立ち並ぶ出店で楽しむ人々、県人はもとより地域あげたイベントであることがよくわかります。と、突然上空から飛行機音…見上げると「祝・オキナワコロニア入植五十周年」の横断幕を牽引し旋回するセスナ機。聞くところによりますとパイロットも県人とのこと、思わぬ演出に会場の皆様も歓喜の声を上げ大喜びでありました。
 翌十五日は、午前九時の慰霊塔除幕式にはじまり、十一時からの式典、そして昼食パーティーを挟んで午後からの祝賀会と続き、全日程終了が晩の七時と長時間にわたるものでありましたが最後まで大変熱気あふれる式典・祝賀会でありました。会場の文化会館に準備された約千人分の椅子では足りず、屋外の仮設テントにて祝っている方々もたくさんおられました。特に式典には直々にボリビア共和国(カルロス・メサ・ヒスベルト)大統領も出席され、半世紀におよぶ開拓の歴史に讃辞を送られましたことは、ボリビア政府が模範的農村として高く評価している証でありましょう。
 今回印象的だったのは、「STAFF」と入ったベストを着用した二世あるいは三世と思われる中・高校生が会場中を忙しそうに走り回っている姿が見られたことでした。
 苦労された先輩方の背中を見て育った子供たちが素直に、そして逞しく育っていることを強く感じ頼もしく思いました。本当にご苦労様でありました。
 全体的な祝賀会の後、場所を近くの村人宅に移して読谷村人交流会が開催され、アルゼンチンやブラジルからの村出身者も含めて約一〇〇名が参加下さりました。 
 南米独特の肉料理をはじめ、それぞれの家庭から持ち寄った一品料理パーティーは、時間の経つのも忘れる程の大変心温まる宴となりました。参加者全員が心から五十周年を祝い親ぼくを深め、特に大変なご苦労をなされました一世の皆様方の笑顔に触れ安堵する思いが致しました。また、海外子弟研修生として読谷村で勉強した三人の研修生の帰国後の報告がなされ、沖縄での経験を生かし頑張っている姿を目の当たりにして本当にに嬉しく思いました。
 ボリビアをはじめとする海外で暮らす村人の故郷「ユンタンザ」に対する思いは私たちの想像以上に深いものがあります。ユンタンザンチュとしての自信と誇りを抱きながら逞しく暮らす村人のためにも母村・読谷村の更なる発展のため我々も今以上に頑張っていきたいものです。

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