みなさん、他の市町村には同名の字があるのに、どうして読谷村には字読谷がないのか考えたことはありますか?
100年前まで、今の村がまだ間切と呼ばれていた時代から、各間切には間切名を冠とする「同村」(今の字)がありました。
(例:北谷町字北谷、宜野湾市字宜野湾など)
中頭の間切名をみてみると、北谷間切、具志川間切、越来間切、勝連間切、中城間切、浦添間切、西原間切など、いずれも同村が存在します。
では、なぜ読谷村(読谷山間切)には同村がないのでしょう?
もともと読谷山間切は、25カ村(字)をもつ大きな間切でしたが、1673年に国頭方恩納間切が創設された折、宇加地以北の8カ村(塩屋・真栄田・蔵波・古読谷山・仲泊・前兼久・冨着・谷茶)が読谷山間切から編入されました。
そのため、当初、読谷山間切の主邑であった古読谷山(山田の古名)が恩納間切に編入されたため読谷村には同村が存在しなくなったのです。
その読谷山の地名由来については、袋中上人が著した「琉球往来」の中で、狭間に広がる田、すなわち「四方田狭」と宛てられていることがヒントになります。
「おもろさうし」では、「よんたむさ」「よんたもさ」と記され、他に地理に由来する中山地域の遠い北方を意味する「大北」とも呼ばれました。