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1957年2月発行 読谷村便り / 2頁

皆て護ろう吾等の城を

△皆て護ろう吾等の城を
 座喜味城は今から凡五百年前、有名な護佐丸が築いた城である。護佐丸は北山鎮護の為、初め山田城に居たが北山討滅後、城を間切(今の村)の中央、座喜味に移したのである。その移築には付近の各間切は勿論遠く、與論永良部大島等からも多数の人夫が来て山田城の石垣を手渡しで移築したとのことで、その筆者(監督者)たちは城下に假屋を建てて寝泊りしたので、今にその場所を「筆者ニー毛」と云って地名が残っている。
 昴して護佐丸は二十数年間この城に居たが、勝連の阿麻和利に備えて中城城に移ったのである。戦前までは拝所として座喜味ヌールが管理し石垣高く古木鬱惣として、読谷の中央にそびえ恰もお正月の鏡餅の頂点の気高さで眺望絶桂又航海者の目標ともなって有名であったが、大東亜戦に樹木は伐ち倒され城門の一部も壌されてさながら、首を打ち討ち落とされた残骸のようで目もあてられない惨状である。
 それで政府の文化財保護委員会では、「史跡特別重要文化財」としてその保護に努められつつあるが、今でも尚その石垣を壊す者があるのは洵に遺憾に堪えない。前述の通りこの城は護佐丸の徳望と吾等の祖先が築いた城であることに思いをいたし、早く戦前の姿に復旧せしめるよう皆でこの城を護ろうではありませんか。(知花英康)

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