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1958年3月発行 読谷村だより / 2頁

社会福祉事業研修通信(第二号)読谷村社協副会長読谷村助役知花成昇

〔21号1ページの続き〕

の午後三時間に受講しただけで来週三十日、三十一日の両日午前に開講予定となって居ります。先生方による講義は以上のとおりでありますが研修生相互のグループ研究がありますのでグループ編成に二十三日の午前三時間があてられ、二十五日の土曜日午後と日曜日の一日は私達の自由の時間でありましたので、二十日に東京についてからはじめて外出都内見学をやりました。
 それで今日は講義の終わった社会福祉事業基礎知識の中の歴史と形態について報告致しまして、理念、社会保障論、社会政策については来週これらの科目が全部終了してから報告する事に致します。先づ最初に社会事業基礎知識としての歴史について、社会事業という言葉はそれ程古い言葉ではないようです。第一次大戦終了の大正九年(一九二○年)頃からの新語であって、社会福祉という語に到っては、第二次大戦後、一九四六年に出来たばかりであるから言葉の発生から考えると三十~十二年程度であって歴史というほどの事もないようですが、しかし、それ以前の慈善事業や救済事業にさかのぼって見るとずいぶん昔からこの種の事業は民間において教会において或は国家において、文化の発展、宗教の変せんと共に種々の形で行はれ発展して来たようです。
 ノートがあまり上手でないから要を尽し得ないかと思いますが出来ます範囲で書いてみましょう。
 公の救済民の慈善といって民間や私的の社会事業は慈善事業といひ、公の行ふ社会事業は救済事業といはれ、どちらが早くから行はれたかと考えるとき、慈善事業は私的な事業であり民間事業であるから、その地域に少数の篤志家や先覚者があれば行はれるが公の救済事業はそういうわけにはいかずやはりその地域の世論が熟しなければ行はれないので慈善事業の方が救済事業よりも早くから行はれたと理論的にも西欧ヨーロッパの社会事業史からもはっきり証明されるようです。次は社会事業と宗教との関係でありますが、社会事業は宗教と密接な関係があるようです(常識的にも考えられる事ですが)文化民族の宗教である限りにおいて、慈善事業をともなはないものはないといはれておって、宗教心、信仰心、というものは、人情をかける、人をあはれむという事は不可分の関係にあって、近世の初めに至るまでは社会事業は教育事業と共にもっぱら教会にまかされて、教会すなわちキリスト教の人間愛、又は隣人愛が慈善事業の発端であって、キリスト教以前にはほとんど慈善事業はなかったという説があるそうです。
 第一信で書きました大宝律令戸令の救済規程や大阪の四天王寺の四箇院(敬田院は仏道戒律の道場たる本堂、非田院は貧窮孤独のよるべなき者を収容する養老院孤児院、療病院は救療病院、施薬院は施薬診療機関)で救護と教化とが並びに行われる事になっていたようです。
 このように手紙で書いていますとノートの整理があまり上手に出来ていませんから何を書いているか自分でも分からなくなりましたが、社会事業の歴史としては
一、国家建設時代(四○○~九○○年)国家はまだ幼稚で慈善事業は全く教会に一任されていた。
二、封建制度勃興時代 西歴九○○~一、三○○年

三、封建制度衰退時代 西歴一、三○○~一、五○○年

四、近世の時代 西歴一、五○○~一、八○○年

五、最近世の時代西歴一、八○○年以降

と五段階に分けて詳しく面白く、いろいろの史実をあげて講義をうけましたが長くなりましたので詳細は帰ってから講義要綱で報告する事に致しまして次は社会事業の形態について、日社大の講師研修所の主任佐藤舎先生の講義から要点を書いて見ましょう。
 先づ社会事業ないし社会福祉事業の意義ですがその対象が社会経済事情によってつねに変動して、しかも複雑であって社会事業にもちいられる手段方法も多岐にわたっていることばかりでなく、これにつかわれる技術もたえず進歩しているのでその全体をとらえることは不可能とされているが、定義なしでいろいろな点で不便であるとして、これを一定の形であらわそうとする努力は幾多のひとびとによってこころみられ、パリーで開かれた一、九二八年(昭和三年)の第一回国際社会事業会議でも、いちおうの定義づけがなされたようです、それによりますと「社会事業とは貧困から来る困窮を救済し、個人及び家族の生活を常態に恢復せしめ、また種々の社会的害悪を除去して社会状態を工場改善ずる事業をいう」また日本におけるもつともあたらしい社会福祉事業の定義としては
一九五0年(昭和二十五年)七月パローで開催された国際社会事業会議に、提出されたものがあります。
これによりますと
「社会事業とは、正常な一般生活の水準から脱却、背離し、またはそのおそれある不特定の個人または家族に対し、その回復保全を目的として、国家、地方公共団体或は私人が、社会保険、公衆衛生、教育等の社会福祉増進のための一般対象と並んで、またはそれを補い或はこれに代って、個別的、集団的に、保護、助長或は処置を行う社会的な組織的活動である」となつております。
 ずいぶんややこしいむつかしい事になりましたがもうすこしがまんして下さい。このように社会事業の定義としてはまだ人により国によりいろいろ定義づけられているようですが、この社会事業ということが今日では社会福祉事業という名称が用いられることはご承知のとおりでありますがこれは社会事業が単に貧困に陥ったものを救済することだけでなく、積極的に防貧からさらにすすんで福祉の増進までをもその目的にふくらませたいという意気込みをあらはし社会事業本来の理想を強調するためであつて本質的にはなんら異なるものでないようです。つぎは日本における社会事業の発展について明治以降から終戦までと終戦後に分けてノートを整理してみましょう。
日本の社会福祉事業の発達は、とくに近代的意義の社会事業は明治以降のことであつて、第一次大戦から関東大震災にいたる期間にこれが成立したといってもよいようです。社会経済的な事情の要請が天災地変によって拍車をかけられ、富める者の同情心、人類愛からの慈善恩恵的事業はあたらしい社会事業の発展しだんだん公共性が認識され、行政の整備の必要を生じ国家においても地方公共団体においてもその機関がだんだん出来て来たようです。控い表現でわかりにくいと思いますので年表風に列挙しますと
1 大正六年(一、九一七年)内務省地方局に救護課新設
2 大正八年(一、九一九年)救護課が社会課と改称
3 大正九年(一、九二0年)内務省に社会局が新設、地方の社会事業行政制度の整備をみ、各課に社会があいついで新設された
4 大正十一年(一九二二年)内務省の社会局は外局としての社会局に昇格
5 昭和十三年(一九三八年)厚生省が新設される。
いつぽう一九一七年(大正六年)五月、岡山県に済世顧問制度が設けられ、さらに翌年大阪府に方面委員制度が施行され、各県これにならい方面委員制度は全国に普及するにいたつた。この時期から救貧より防貧への方針がとられ、経済保護事業の発展をみ、社会事業の対象となるべき貧困の範囲を拡大し、また貧困の新しい分野を開拓すると

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