読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1958年5月発行 読谷村だより / 4頁

なぜ読谷村は糖業村としてしられたか

〔23号3ページの続き〕

の川之上の次良チャチャと云う人が或る夜他村から帰宅の途中甘蔗を食って其の梢頭部を自分の宅の水かめの側につきさして置いたら一定の日数がたつと芽をだしたので是れにひんとを得て甘蔗の繁殖には製糖用の甘蔗苅出しのとき、よく苗の選択には注意し比較的大きな甘蔗の梢頭部を繁殖用苗に充て小さい甘蔗の梢頭部を牛馬の飼料にしてさう云う事を度重ねるによって甘蔗はだんだん改良せられ今までの甘蔗の二倍三倍の大きさになった。是れが所謂読谷山種即ち読谷山甘蔗である。これを調べた人は黒岩恒と云う博物学者で知花英康さんの師範学校時代の先生又沖縄に始めて農学校が国頭郡の名護に出来た時の初代校長で私の先生でもあった。この様に読谷山甘蔗が従来の島甘蔗より優良種であることがわかったので他間切(他村)からも読谷山種の苗希望者が続出し遂に沖縄本島は勿論宮古、八重山までひろがった。今の大茎種が外国から込つて来るまで皆読谷山種を植え付けていた。今のように進歩した今日ならいざ知らずあの昔に於いてこの様な事を発見して沖縄唯一の換金作物の王で全琉経済を左右する甘蔗作に大きく寄与した事は少しの疑いも差しはさむ余地はないと私は思いますので儀間真常氏と共に沖縄の糖業誌の第一ページを飾る価値があると私は思うのであります。
 この事は我が読谷村の誇りとすると共にますます自重して其の意志を受継ぐべく努力すべき事だと思います尚読谷村が糖業村として世に知られた所以は明治の末大正の始頃全沖縄五十ヶ市町村の黒糖品質並に産額勝負がありましたがこの勝負に於いて我が読谷村が三回つづけて一等に連勝した為め優勝旗貰い切り引続き他村の追随を許さない一等以上の黒糖八○%との好成績を出し勝負ごとに特別賞を与えられこの勝負から除かれたので他村では読谷山とは戦われぬと云われたのである。
 これで製糖期間中は毎日他村から製糖視察人が三組四組づつ来るし又砂糖販売委託問屋では読谷山砂糖を看板にして取引きする状態になったので全沖縄の黒糖の品質が向上した。だから読谷村は名実共に完全な糖業村である。
 以上二つの古きを尋ねて見ると我が読谷村は其の昔甘蔗の品種改良又黒糖の品質改善に於て沖縄の糖業に貢献した事は疑いない事で我が読谷村民はこの先輩方の意志を継ぐべく努力する事を忘れてはならないと私は思う者であります。

〔表〕「含密糖生産高」「甘蔗作付面積と収穫高」は原本参照

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