読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1959年11月発行 読谷村だより / 2頁

私達の村の産業は 実態調査より 3

〔41号1ページの続き〕

収入源となっている。総戸数三、四一六戸のうち一、九五八戸即ち五七%が非農林業を主として生活を推持しているわけである。特に軍作業の収入を主として生活をしている戸数が九六○戸を有していることである
 全琉を経営規模別に見ると五反未満の農家が六三、八九○戸で全農家の約七二%を占め一町歩未満一八、五% 一町歩以上はわずか一%になっており一農家当りの耕地面積は四、七反となっている、これは戦前の六五反に比して一、八戸の減となっている。
 又琉球の農業の地位を産業別実質所得からみるとその割合は四九%で住民経済の主軸をなしているのであるが戦後は農業は農業経済上に種々な制約が加えられその規模が縮小されたために一、九五七年においては一五、九%となりその経済的地位は極めて低い結果となっている。
 読谷村もほぼ同様で一、九五七年の産業別所得からみると軍用地賃貸料の個人賃貸所得も含めて一八、五%程度しか有しない。
 就業人口とそれらの所得についてみると農業就業者は五三、一%にあたるがそれらの農業所得は一八、五%にしかないということは農業労働力の低位生産を示すものである。先月号でも強調したとおり農業就業者という即ち有業者という実名のもとにカムフラージューされた就業者が数少なくないからである。
 耕地の利用状況を見るに年間作付が甘藷五、七○○反、甘蔗三、四○○反大豆八六○反 水稲二一○反その他の作物が作付され作付延面積九千反余となり利用率一四五%を上まわっている、農作物の年間生産額約三五万弗と推計される。
 家畜は戦災による家畜数の減少に加えて耕地の減少に伴う農家の経営規模が零細化したため総体的に減少し特に大家畜は戦前の域にははるかにおよばない。
一、九五九年六月末日の資料によると豚六、五一四頭 牛八二頭 馬一九二頭 山羊二、一六八頭 鶏五一七七羽となっている 特に豚は頭数、品質共に全琉で上位にあり向上の一途にある子豚の年間生産頭数七千余屠殺及売上頭数が同じく七千頭を上まわるであろう。
 以上の分析から戦前の比ではないが本村の基本的産業である農業に多角的な改革が加えられたことは皆な存じている通りである。製糖工場の設立それにともなう甘蔗の作付面積の拡大品種の改良、荒蕉地の解消、苗圃の設置、農薬の使用、新しい換金作物としてタバコ葉の栽培、農道の完備等と多くの改革と進歩があり食生産の基である農業に悲観を持ずして合理的な科学的な経営によって戦前の線に達するのも不可能ではないであろう。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。