読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1960年4月発行 読谷村だより / 2頁

読谷は教育村

読谷は教育村 
知花英康

 世に「灯台もと暗し」とか、「慶良間はみえるが睫毛は見えない」とかいう諺もあるが、読谷は産業村であったという事は多くの人が知って居るが教育村であるという事は村内の人でさえ認識せない人が多い。
去った戦争で産業面は見る影もなく消え失せたが教育の成果は残って益々冴えつつあることは教育界を始め医界、政界、官公衛、実業界方面で多数の人物が活動しつつあるのを見てもなずけるのである。今沖縄で博覧会でも開かれたら読谷は何を出品するか?人物輩出図でも出すより外にないのであるが之は読谷の先輩がよくわが郷土に立脚して卒先垂範、企画宜しきを得た結果であり、或る時代は教育の中心地の如き観さえあらしめたのである。
その二、三の実例をあぐれば
一、学校教育の普及、明治二十四、五年頃までは小学校は各村一校で毎年の入学児童はどの村も四、五十名程度でしたが読谷は明治二十六年校長に村上長繁(熊本県)教頭比嘉保彦(波平)の両氏を迎へ大いに教育の普及に力をつくし衰笠、藷弁当団体通学等の方法により修学督励の結果就学児童激増し毎年十月三十日の那覇瀉原に於ける県下大運動会には読谷校生徒の多きに衆目を引き時の中頭役所長が本村の就学奨励方法を調査に来られた事もあった。
二、独力で高等科併置。高等小学校は各郡一校で中頭郡は普天間に中頭高等小学校があったが読谷からは遠くて入学者も少なく又折角入学しても半途退学者が多く完全に卒業する者は至って稀れであった。それで時の間切長長比嘉自作氏(波平)決然起って明治三十年四月村上校長と計り一村で高等小学校を併置した、之を見て他村も「右へ倣へ」で続々高等科を併置し郡組合の高等小学校は明治三十五年までには皆解散したのである。
三、学事奨励会、今日のPTAや学校後援会の全身たる学事奨励会は大正二年古堅校長成富敬吉氏(佐賀県)の尽力に依て発祥し漸次各地に伝播したのである。
四、高等学校の設置、戦後村民が各避難地から帰村するや本村の地理的、歴史的実情及時代の輝勢に鑑み直に高等学校設置を企図し一九四八年漸くその実現を見て今日に到つたのである。
五、社会教育、大正三年、それまで他に類例の無かった婦人会が本村から発祥し又戦後は卒先公民館や子供遊び場を設し今やその運営、活動に進みつつある。
以上本村教育の歩みに就いてその大略を記したが之は比較的であって決してこれでよいと満足するわけにいかない吾等は過去に鑑み、現在を見つめ、更に発展して将来沖縄第三の黄金時代を作るべく大いに頑張らねばならぬ。

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