読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1964年2月発行 読谷村だより / 3頁

辰年を迎えてわが村の三先輩を憶う

辰年を迎えてわが村の三先輩を憶う 
知花 英康
 辰年に発展の年とか飛躍の年とか言われますが私は茲にわが読谷村の辰年生れの三先輩の御遺徳を紹介し度いと思います
三先輩とは波平の比嘉自作先生、比嘉保彦先生、上地の照屋梅岸先生の御三名は明治元年の辰年生れで、自作先生と保彦先生は既に昇天されたが梅岸先生は今尚御健在でブラジルで今度九十七才のカジマヤーのお祝をなさる筈と思います。
 御三名は彼の沖縄移民の先駆者として尊敬されている金武の当山久三さん等と師範学校での同級生で、卒業後自作先生は、普天間の中頭高等学校に、保彦先生は与勝、西原、読谷山、伊波美東の各小学校、梅岸先生は那覇、佐敷、知念の各小学校で教鞭を採って居られたが、その後自作先生は読谷山間切長として八年間もお勤めになったが、さすが明治の新教育を受け若い心身気鋭の人だけあって、他村に率先して読谷山尋常小学校に高等科を併置し、県下人づくりの先駆者として名声を轟かされた事は衆知の事実である。
保彦先生が読谷小学校に赴任されたのは明治二十六年で、それ迄小学校は義務教育制度でなく、毎年の入学児童は字の大小に比例して、五十人の一学級程度の児童を選抜入学せしめて居たのであるが、保彦先生が御赴任以来国民教育の普及に儘力せられ、学齢に達した者は誰でも皆就学出来るようにと学資の軽減から、簔、笠、芋弁当を奨励し又跛者や身体が弱い子供の通学の為に各字団体通学をなさしめ尚退散後の家庭復習等も、先生のお宅でその模範を示し、更に卒業生の進学指導等、実に熱誠溢るその御活躍は保彦先生でなければ到底出来ないと村民から感謝されたのである
 梅岸先生はその後明治の末期頃、東京の貧民窟で貧民学校の児童相手に散鞭を採って居られたので、私が師範附属の訓導時代高等師範に行った序に先生を訪問して親しくお話を承ったこともあり又御帰郷後は折々お伺いして時下に接したのであるが、元中央金庫理事長崎浜秀主氏も梅岸先生の那覇校時代の教え子であったそうで、私に度々梅岸先生のお話をなさって梅岸先生は私の恩師として一生忘るる事は出来ないと話されて居った。尚佐敷や知念での教え子たちからも梅岸先生は私たちの恩師で、今に忘れる事は出来ないと私にしばしば聞かされたのである
要するに右三先輩は同年生で学歴も同じであるが後でその立場が変った為か、外観はその性格、風采までも違った感じをしたのである自作さんは言語動作、威風堂々たる豪傑肌、保彦さんは熱誠溢れるる教育者肌、梅岸さんは痩型の君子肌で、若い時から酒、煙草等も召し上がらず、食量も少し外観はその健康も危ぶまれる程であったが、八十五才の高齢で遙々ブラジルに勇飛せられた時、その送別会で「吾々人間の身体は親が生んでもらったが育てるのは自分でなければならん」と云われた事はさすが堅い御信念のお方だと感激しました。しかし三先輩には共通の美点も多い。即ち御三名とも人物養成後輩指導に尽力された事、利己的便乗主義者でなく献身的、愛他的美質を以て職務に尽瘁された事等は吾等後輩が亀鑑とすべきだと思うのです。
 時移り世は変れども
 今に尚
 忘れられない師のみ教えは

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