読谷の黒衣(クルジナー)の由来
字波平 比嘉 良平 八六才
芭蕉着(バサージン)洗濯はシイクワーサー(ミカン小)メンジチヤ・メーハジチヤとも云う(カタバミ)や又米洗い汁、いも皮を水に入れて腐した(ユナジ)の酸性の液につけてから清水で洗わなければカビして台無しになるので、非常に面倒な洗濯法なので夏の労働着としての「スデチラー」には不便でしたのでこれにいえ(山あい)で染めて黒にすれば酸性の液につけない直接水で洗濯することが出来ることを読谷山の或る人が考えていえ(山あい)を染めて黒くしたのが読谷山の黒衣の始めだと、この黒衣着て働いて汗だくになったのを仕事あがりに、手足を洗う時に黒衣も一緒に洗って何所かに、ひっかけておけば十分そこそこで干き又着てここちよく思う存分に働く事が出来るのがこの黒衣の特色で、夏の労働着として一番便利なものになっていると子供の時私はウスメー(祖父)から聞かされたことを今に覚えている。この黒衣なる「スデチラー」が読谷に長く使われたのも、この特徴があったからだと私は思う。
この黒衣がいつのまにか遂に読谷山の村のマークになった。あの頃他村にあまり多くない農産物の粟、まあぢん、とーぬちん、麦、豆麦に大麦、はだかー、んな麦、豆に赤いんどうー、白いんどうー、赤豆、八月豆、青豆、ウクマーミー、いもくづなどの農産物是等のものには袋物と云った。又いも読谷山クラガーや大根読谷山アガヤ小など袋物は人間がかつぎ、いも大根は馬に負せて首里、那覇に売りに行くと持っている品物の何であるかは問わず黒衣着(ち)やだから読谷山人きっと読谷山特有の袋物、いもは読谷山クラガー、大根は最も早くに市場に出る読谷山アガヤー小であるとして中買いの婦人連中は黒衣着やをひっぱりだこ、黒衣が読谷山村のマークになっていた。
このマークは山原の名護、羽地まで知られていたあの頃読谷山村、おもに楚辺の連中が醤油とお米と交換した名護、羽地に行くと黒衣着人(チヤ)だから読谷山醤油に違いないと心よく米と交換したと。
何故、大根読谷山アガヤー小があんなに人気があったか昔の人は「大根ぬ、んじれーから医者薬ん売らん」と云う程大根は万病の薬と信じていたからだと私は思う。