一九七三年七月号
二〇年ぶりに郷里に帰れるよろこびにわきかえる 渡具知区民
「二〇年前強制的に立ちのきさせられた古里がもどってくる」、とわきにわいている渡具知区民。
これは、去る六月十四日日米合同委で合意された沖縄軍用地返還八施設のうち村内の返還地はボーローポイント(一部返還)とトリイ通信施設(旧渡具知部落)が含まれている。
このトリイ通信施設(九月十五日返還)は、一三六万平方メートルもあって旧渡具知部落も含まれている。
旧渡具知部落は、二○年前米軍により無情にも強制立ちのきさせられた地域である。当時は大戦の傷跡からやっと立ちなおりのきざしを見せ生活基盤を取り戻しつつあったとだけに渡具知区民のショックは、はかり知れないものがあった。
渡具知部落は肥よくで広大な土地に囲まれ、渡具知港は良港にめぐまれ半農半漁で生活は村内でも割と裕福な部落であった。
また、海岸線の白い砂浜泊城は沖縄八景のひとつに数えられ渡具知の知名度は県下でも高いものだった。
だが、解放を目前にして当時の渡具知を語れるものは何ひとつとして残ってない。広大な農地は原野化してススキが原に化し、樹木は切りたおされ、それにかわる高いアンテナが群立し地籍は見るも無残に切りくずされ境界さえはっきりしない。また、白い砂浜は岩ハダをむき出し以前の渡具知を語るものは何ひとつ残ってない程に破壊しつくされている。現在の渡具知区区民は、先祖伝来の土地、家屋をうばわれ二〇年前に現在地に部落を形成したが、安住の地をうばわれた区民は意気鎖沈し借地での生活不安から他部落、他村へ移転する人も多く、当時一五○余帯あった部落民は現在一二〇世帯と村内では当部落だけが人口の減少を示している。また、部落内の道路も借地に入っている関係で借地料の支払いは区民にとって大きな負担であり、家屋を改良、増築しようにも土地が限られ日常生活に不便な生活をしいられていた。こうした生活の犠性に対処するためめ部落ぐるみの「渡具知軍用地解放要求地主会」を結成して関係機関へ開放要求を行なってきた。
村議会でも生活費の犠牲が大きすぎると返還要求を決議し、村をあげての返還要求だっただけに今度のニュースはいち早く区民に広がり行く先々開放のよろこびをかみしめ茶の間は二〇年ぶりに笑いをとり戻したかのように明るいものだった。しかし、地籍も切りくずされ荒れた旧部落の復興には莫大な金と長い時間を要し、復元補償の問題とあわせて、以前ののどかな渡具知部落にもどるのは、かなり先の話になるだろう。
そういう中で当局は、開放に先がけ去る六月議会で、軍用地跡地利用を含む「土地利用計画」を作り総合的な本村の土地利用診断をするという。
尚、同解放予定地域の開放通知は、七月十日現在まだ村当局に届いてなく開放と目ざされている地域の境界確認はまだできない状態にある。
苦しかったこの20年 当時区長 大湾梅吉
当時区長に選任された私は、部落再建のためいちずの使命感をもち意欲をもやしている突先、突然関係者から立退きの件について村役所に呼び出しを受けた。当時の村長喜友名正謹氏や行政府土地係官より命令的な立退き通告を受け、身も心も引きさかれる思いをした。
当部落も五一年の五月にやっと移動許可がおり、これからだと言う失先のことだっただけに、このショックは図り知れないものがあり、通告を受けた当時の腹立ちと挫折感は今もはっきりと気憶に残っている。
部落常会でも何回となく晩おそくまで真険に話し合い区民全員が立き退き絶対反対の態度を何回も確認をし、村長、村議会、立法院、主席に積極的に請願したが米軍の一方的な命令にはどうすることもできず、当時の屈辱感は今だに離れられないのである。
また。移動先においても地主との貸地料問題の解決しないままの移動で現在まで尾を引き住民生活は圧迫されている。
その点で去る六月十五日の渡具地開放のニュースは区民だれもが涙を流して喜こんだものだ。
開放が実現した今日、以後いろいろと問題が起こると思われるが、完全なる復元補償を実現して一日も早く旧部落に帰れるように関係者は取りはからっていただきたいものだ。