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1979年8月発行 広報よみたん / 9頁

沖縄県(戦後)移民の父 知花弘治氏急逝(瀬名波出身)南米移民団送り出しに尽力

沖縄県(戦後)移民の父 知花弘治氏急逝 (瀬名波出身) 南米移民団送り出しに侭力
 戦後、沖縄県南米移民送り出しに君臨し、自からも移民団の団長として南米ボリビア国に移住。戦後南米移民の草分けとなって活躍された知花弘治翁(瀬名波出身)が去る五月十五日第二の古郷ボリビア国、第三沖縄コロニア入植地において永眠されました。
 故・知花翁は戦後沖縄県南米移民の送り出しに君臨した功績は高く評価され、戦前の移民の父と呼ばれた当山久三翁(金武村出身)と並んで、戦後の沖縄県「移民の父」と呼ばれています。
 故・知花弘治翁の生前のプロフィルを覗いてみると、氏のフロンティア精神の旺盛さは生れながらの気性だったといわれる。戦前村役場技手を退いて、昭和十三年満洲(現中国)へ渡満。一千名余の開拓団長として一心不乱になって満州開拓に傾注された。満拓も軌道に乗り生産態勢を整えた矢先に日本国の敗戦。同時に満拓開発構想「夢の田園街」は水の泡と消え失せ、幾多の屈辱に耐えながら満州を引き揚げられた。その当時、満州拓殖公社に勤めていた山内勝次郎氏(座喜味老人クラブ会長)の回顧では「氏の温厚篤実な人柄は入殖団員から深く慕われていた。全国各地から募る入殖者は人それぞれ気性も違い、その中で団長としての重責を果された。満拓における沖縄県出身の団長は故・知花氏以外にいなかった」と記述している。
 戦後は傷心の中で帰村。廃虚同然の村おこしに尽力された。ことに、故・当山真志氏(元村長)等と共に通称アカムヤにおける赤レンガ造りは、その当時役場庁舎の新築工事にも使用されたという。一方、昭和二二年十月読谷農協組合長に選任されるや村の農業復興に献身的に取り組まれた。精米所、鍛治屋をつくり、農具の製作修理に当らせ、畜産の増殖を図るなど廃虚の中で、ゼロからの農業おこしに村民に活力と英気を培わせるなど、その業績は高く評価されてきた。
 その当時、村総面積の八○%余りが軍用地として接収されていた。村の農業おこしも軍用地という厚い壁に阻まれ、限界を感じた氏は昭和三四年南米移民金庫事務局長に転職、一貫して南米移民の送り出しに傾注された。氏の南米移民に対する夢はどこまでも大きく、天性のフロンティア精神にかりたてられる氏は昭和三五年目からも第十次ボリビア移民団として同胞を引きつれ、ボリビア国に第二の古郷の地を求め精力的に開拓に取り組み、土と汗にまみれて末開の森林を開拓された。
 以来、苦節二〇年。忘れることの出来ないボリビア国大水害(昭和四三年)に見舞われながらもその苦境を克服。現在では約六〇万坪の農場を拓き、生活基盤を整えられていた。氏は今年喜寿を迎え、古郷に錦を飾る準備、その矢先に急逝され、亨年七三歳であった。氏の急逝は南米各国の沖縄関係移住者にいち早く伝えられ、深い悲しみの喪に服されたという。
 広報よみたんでは、故人を偲んで山内繁茂氏(大湾)に「故・知花弘治氏の死を悼む」と題し次の手記を寄せていただきました。併せて、故人のご冥福を心からお祈り申し上げます。

※写真は原本参照

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