読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1979年12月発行 広報よみたん / 6頁

幻のさとうきび「読谷山種」宮古・池間島で発見

幻のさとうきび「読谷山種」 宮古・池間島で発見
 絶滅したものと思われていた幻のさとうきび、本村ゆかりの「読谷山種」がこのほど宮古・池間島で発見され、久々に故郷の地、我が村に帰ってきた。
 読谷山種の発見は、先に宮古島で開かれた県畜産品評会に出席した村役場経済課の仲村渠英二技手、石嶺伝実技手が研修活動のさなか、偶然にも読谷山種らしきさとうきびを発見。まさか?と思いつつも、そのルーツを探る中で確かな心証をつかみ「これぞ世紀の大発見、誠の読谷山種ダ!」と一瞬心の奥に熱気を呼び、劇的な読谷山種との出合いを小踊りするかのように喜んだ。その時の模様について両技手は「まさかと思っていた。私たちはまだ独身ですが、まさに彼女をいとめた喜びを感じるものがあった」。と農業技手らしい士気を興奮さめやらぬ面持で話していた。
 幻のさとうきび「読谷山種」は池間島の松川利勝氏の庭に六〇年余りにわたり根強く品種保存されていたという。池間島における読谷山種のルーツは松川さんの父親が約七〇年前に沖縄本島から持ち帰り、島の糖業を興こしたという。それ以来、同島での糖業は飛躍発展をとげ、大正末期の大業種導入以前まで全盛を誇り、池間島産業興こしの救世主的存在だったとのこと。だが、大茎種導入以降は次第に衰退し、島からもすっかり姿を消そうとしていた。その中で松川氏は、島の産業に大きく君臨してきた読谷山種との離別がつらく、品種保存と共に、父親が導入した関係で父の形見のつもりで-。と六〇年間も朝な夕な同種保存に努めてきたという。
 読谷山種は松川氏の協力によって株分けしてもらい、両技手にしっかりとたずさえられ、七〇年ぶりに故郷の地、我が読谷村に帰ってきた。役場、経済課ではさっそく苗畑に補植、新芽を吹き出し、時の糖業界その一世を風びした堂々たる容姿が来春早々にも村民の前に姿を現すことになるであろう。
 =読谷山種とは=
 かつて、沖縄糖業界に大きく貢献した。読谷山種は楚辺出身の比嘉牛翁(一八一二年~一八八七年)が在来さとうきびを品種改良し、明治年間~大正末期にかけて奨励品種として広く普及し、その当時、台湾にも移出されたという。
 その業績はさとうきび製造を取り入れた儀間真常翁と並んで沖縄糖業史の一ぺージを飾るものだといわれている。しかし、大正末期の大茎導入後は県内からはすっかり姿を消し、今ではすっかり絶滅したものと思われていた。こうした歴史的背景の中で、今度の「読谷山種・故郷へ帰る」はとりわけ大きな話題になるものだろう。
 一方、村文化財保護委員の山内繁茂氏(大湾)は「成長の過程をみないことには、はっきりと読谷山種といえるかどうか。だが、立地場所と茎の型態、それに、きびに附着している通称『ろう』は旧来の読谷山種に酷似している。ともかく来春の生長過程が楽しみだ」と話していた。
(写真)-読谷山種七〇年ぶりにふる里へ帰る。
 絶滅したものと思われていた読谷山種だけに、しっかりと手中に納める喜びは我が子をだきしめるにあたいすると語る経済課担当職員

※写真は原本参照

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。