読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年2月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記六 土帝君 渡久山朝章 【写真:親志の土帝君】

 土帝君は沖縄では「トーティークー」あるいは「トーチークー」等の名で呼ばれているが、これは中国の道教の系統を引く信仰とされている。
 東恩納寛惇の『南島風土記』によると、土帝君すなわち「トーチークー」は「土地公」の転訛(音の変化)であることが知られる-とされている。
 一方、『沖縄文化史辞典』によると「土帝君は沖縄でトーティークン、トーチークー、その他の名でよばれているが、中国では土地神といい農業の神として信仰されているという。沖縄に伝来すると、農業神として信仰される外に、金儲けの神、災難よけの神、健康長寿幸福の神、また漁師などは大漁の神として信仰しているという。その村の生産基盤に適応した神と転化しているのだ」と書かれている。
 本来農業の神様である土帝君(土地公)をいろいろな神に仕立てる沖縄人のしたたかさには恐れ入るが、反面、こうしたことは幸うすい庶民たちの貧しさからの脱出願望から来たものかも知れない。
 では土帝君(土地公)信仰はいつごろ沖縄に入ってきたのであろうか。
 琉球の編年体歴史記録『球陽』の尚貞王三〇年(一六九八)に「鄭弘良奉安土地君於大嶺邑」とあり、これは「鄭弘良が土地君を大嶺村に奉安した」ということであり、その説明内容(原文は漢文〕を分かりやすく書くと、おおよそ次の通りとなる。
 「紫金大夫鄭弘良(大嶺親方基橋)は王の命令によって福州に入り北京へ行った。その時に土地君像を乞い求めて持ち帰り、大嶺村に賜った。村中の人たちは喜んで物やお金を寄付し石のお堂を造りその中に奉安した」
 土帝君(土地公)について読谷山では、喜名と親志のものがよく知られている。
 喜名の土帝君祠は観音堂のすぐ左側にある小さいセメント造りのお堂で、かつては中国風の服装で鍬を肩にした陶製の像が祭られていたというが、今は香炉だけしかない。
 親志の方は『読谷村誌』によると「戦前は旧の二月二日、九月九日、十二月二十四日の年三回〈唐延公祭り〉が行われたが、戦後はなくなっている」とされている。これは土帝君祭りのことをいっているのだろうが、今親志の旧集落地の外れの木立の中には、ちゃんと祠があり、一対の像も奉安されている。堂宇の近くには祭りで点した黒御香の残りも集められており、それからすると祭礼は毎年持たれていることが分かる。
 ここの土帝君は明治十五年から二十年に至る頃、つまり親志の入殖初期に安勢理家を中心とした人々によって勧請されただろうと言われている。旧歴二月二日には沖縄各地でも例祭が執り行われているが、この日は土帝君(土地公)の生誕日に当るといわれている。

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