喜名小学校の校門を入って、すぐの突き当りにこの写真で見るような「読谷村教育発祥の地」という石碑があります。
読谷山には琉球王朝時代から村学校というものがあったということですので、ここでいう「教育発祥」は厳密に言うと「近代学校教育発祥」ということになるでしょう。
日本では明治五年(一八七一)発布された学制によって近代学校教育制度が打ち出され、義務教育制がうたわれます。そして明治十三年(一八七九)、沖縄の廃藩置県にともなって学制が沖縄にも及び、翌十四年には伊江島を含めた本島各地に十四の小学校が創設されました。(学制は明治十三年廃止され、代わって教育令が出されます)
読谷山では明治十五年三月二十七日に読谷山小学校が創設されました。
この学校創設は教育令を受けた県からの強い指示によるもので、間切番所(村役場)は大変な苦労を強いられたようです。
教室がないので番所(役場)の一室を片付け、そこに机を入れて教室にしました。
教室は準備したものの生徒はいない。当時学齢児童が一五六二名いたようですが、いろいろな思惑から入学希望者はいません。
仕方なく各村(字)に割り当てしてやっと三十名の児童を確保したということです。就学率が一・九二%です。
ですから就学した児童 -とはいっても八歳から十六、七歳位までの人たちだったようですが-に対しては年に麦を二俵か三俵与えて奨励したようです。
初めての普通教育ですから、沖縄の人には教師適格者がおりません。ですから鹿児島県出身の吉村 嘉平治訓導を唯一の先生として指導を始めたのでした。
ところが生徒は標準語が分からず、先生は沖縄方言を知らないものですから授業は全くチンプンカンプンだったようです。それで喜瀬という人を雇い入れて通訳とし、それで授業を進めたと言われます。
翌明治十六年(一八八二)になって、番所敷地以外に学校敷地を求めて二教室を新築しました。その時の学校敷地が現在の喜名小学校敷地に当るのです。それでここには「読谷村教育発祥の地」という石碑が建てられているのです。
読谷山小学校は明治四十四年(一九一一)に敷地を村の中央部座喜味に移り、喜名は分教場となりました。昭和十六年(一九四一)には読谷山国民学校と名を変えましたが、昭和十九年(一九四四)日本軍の飛行場建設にともない、また喜名の敷地に戻り、そこで戦火にあい学校施設はすべて消滅しました。
戦後喜名地区は立ち入りが遅れたため、読谷初等学校は現読谷中学校の所で再開され、読谷(山)小学校の名は喜名から別の場所に移ってしまいました。