読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年4月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記(16) 阿摩和利の墓 渡久山朝章 【写真:1】

 古堅小学校の裏門から三、四十メートルばかり離れた北の方の岩かげあまわり陰に〈阿摩和利の墓というものがあります。
 この墓は写真で見るとおり、岩陰をコンクリート・ブロックで閉じただけで、左手には阿摩和利の墓というセメントの碑が建てられています。碑には一九六三年四月二日とも記されていますから、その時に墓の修理も行われたものと思われます。
 『沖縄一千年史』によりますと、阿摩和利は勝連城中で大城賢雄(鬼大城)に斬られたとなっており、一方、『毛氏先祖由来記』には、女装をして女たちに紛れて逃げて行くのを大城が追いかけて討ち果たしたと書かれています。
 勝連の城中で討たれたか、あるいは逃げていく途中で殺されたかも知れない人の墓が、どうして読谷にあるのでしょう。
殺された上、謀反者の汚名まで着せられた者の遺骸を、勝連からはるばる読谷まで運ぶということも考えものです。うっかりすると謀反者の一味と見られる恐れがあるからです。
 そのような疑問を解くために、伝説等に目を向けて見ましょう。伝説では、勝連で敗れた阿摩和利は、生まれ故郷の屋良に逃げのびます。ところが討っての者が迫ると、もう逃げる先は読谷山しかありません。
逃げに逃げて、楚辺の〈エンミの毛〉まで来ると、もう駄目だと観念して「エミ」と言いました。それは屋良の言葉で「降参」ということのようです。
しかしそれは聞き入れられず、そこで討ち果たされたということです。〈エンミの毛〉とく阿摩和利の墓〉は五、六百メートル位しか離れていません。そして〈エンミの毛〉あたりには墓になるような岩陰はありません。それで阿摩和利は現地の地に葬られたのではないでしょうか。
 一般に阿摩和利は逆賊、あるいは謀反者ということになっていますが、それは本当でしょうか。沖縄学の父と言われる伊波普猷先生は、護佐丸は忠臣ではなく阿摩和利も逆臣ではない、と言っております。考えて見ますと、護佐丸を阿摩和利が討ち、鬼大城が阿摩和利を討ち鬼大城は首里軍に追われて知花城で自害いたします。この一連の戦いの裏には、自分の手を汚さずに邪魔者を片付けた者の高笑いが聞こえてくるような感じがしてなりません。
 当時は三山が統一されていたとはいえ、首里の権力の基盤はまだまだ不安定で、場合によってはだれが世の主(王)になるか分からない時代であったという見方もあります。
そういうことでは、忠臣とか逆臣とかは、後世の歴史家が書いた(書かされた)ものでしょう。
墓の前に立つと『おもろ』に謳われた「肝高の阿摩和利」の無念さが忍ばれます。

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