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1992年8月発行 広報よみたん / 7頁

【見出し】読谷山風土記(20) 座喜味城跡 渡久山朝章 【写真:1】

    座喜味城跡には公式の説明板が立っています。よって今回はその
   説明文を掲げて城蹟の紹介にしたいと思います。(城跡か城蹟か)
 「座喜味城は、十五世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。
 護佐丸は当初、座喜味の北東約四キロメートルにある山田グスクに居城していたが、一四一六年(一四二二年の説もあり)中山尚巴志の北山城攻略に参戦、北山攻略後は戦後処理のため一時北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。
 城跡は座喜味部落北側の小高い丘、標高一二〇メートル余の名護層からなる台地を石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、城は二つの郭からなる連郭式の形態になっている。
 城郭内の面積は約四、〇一二・五一平方メートルで、沖縄のグスクとしては中規模である。
 この城には一の郭と二の郭にアーチの門がそれぞれ一つづつ造られているが、アーチ石のかみあう部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめられており、他のグスク等には類例がない。このことから座喜味城のアーチ石門が現存するアーチの沖縄での最古のものと見られている。
 座喜味城跡は一九七二年の本土復帰に伴って国の史跡に指定され翌年の十月から沖縄県ではじめて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。
 整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ成果を上げた。
 出土遺物は、グスク系土器と須恵器が少量、中国製陶磁器や古銭などがあり、これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国製陶磁器は、十五世紀から十六世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が一四四〇年に中城城へ移った後も使用されたと考えられる。
 遺構については一の郭の北側に間口一六、五八メートル奥行一四九四メートルの石組が発掘され、この中に建物が建っていたと思われる。しかし瓦等は出土しない事から屋根は板茸か茅葺の建物であったと推定され、また一の郭内の南側では城壁を作る以前の柱穴群も発見され、出土遺物からそれほどの時代差はないものの、一の郭内において二つの時期の遺構が確認された。
 城跡は第二次大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、整備の始まった翌年返還された。
 城壁は一九八二年に修復を完了した。
 城壁の上に立つと、首里・那覇をはじめ、本島西側本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・(伊平屋諸島?)が眺望出来る要害の地にある。」
 (註=横書きを縦書きに直し、一部の表現や送り仮名を訂正、段落を補ってあります)

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