読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年12月発行 広報よみたん / 4頁

【見出し】読谷山風土記(24) 忠魂碑 渡久山朝章 【写真:1】

 この忠魂碑は、読谷村総合福祉センターの隣、勤労者体育館の裏に建っています。元々、そのあたりは旧読谷山尋常高等小学校(昭和十六年に読谷山国民学校と改称)の敷地で、この忠魂碑は、北校舎と南校舎の東端の間に、つまり建物とともに運動場を囲むようにして建っていました。 ところがうっかりすると、戦後世代の人達には忠魂碑と他の慰霊塔とを混同するおそれなしとしません。
 慰霊塔や慰霊碑は、沖縄戦をはじめとする各地の戦で亡くなったすべての人々の霊を弔い、慰めるものであり、同時にあのようなむごたらしい蛮行を二度と繰り返すまいとの祈りと決意を込めて建てられたものでしょう。
 しかし写真で見るこの忠魂碑は、他の慰霊塔と同列に考える訳にはいけません。
 忠魂とは忠義の魂ということであり、それは国のため、天皇陛下のために戦って死んだ軍人の魂と言うことで、忠魂碑はそれを顕彰(功績を世間に知らせ表彰する)ための碑だったのです。碑は砲弾をかたどっており、いかにも軍国時代の英霊(戦死者の魂)を賛美するのに似つかわしい形をしております。
 このような英霊賛美の風潮は、やがて多くの国民に、戦争への道が大義(天皇や国に対してはたすべき道)としてたたき込まれ、多くの若者達を戦場に駆り立てて行きました。
 そのような中でも、忠魂碑にぬかずくことについて疑問を抱いている人々もいないわけではありませんでした。教会のクリスチャンたちは、戦死した人を悼む気持ちには変わりはありませんでしたが、その魂を神として崇める訳にはいけません。彼らの信仰する神は唯一の創造主であり、それ以外を拝むことはできませんし、ましてや砲弾をかたどったセメント柱に向かって礼拝することは偶像崇拝に他ならなかったからです。
 ところがそうは言っても、軍国主義の風潮は全国民の心を強く捕らえ、それに反する者は非国民扱いされ、キリスト教の教義に忠実に生きようとすると、邪教扱いされました。忠魂碑については、読谷山教会内でもさまざまな波乱を巻き起こしたようです。
 今、この忠魂碑は写真で見るとおり、かなりしっかりした手摺り付きの台座に建てられていますが、碑の説明文の部分は剥ぎ取られ、忠魂碑という文字を揮毫(書くこと)した人の名もつぶされて○○○○大将ということが辛うじて判読できる程度です。
 このように説明板等を壊した人は、恐らく軍国主義時代の忌まわしい遺物だということで壊したのでしょう。
 その気持ちは分からない訳ではありませんが、私たちはこうした物を「物言わぬ証言者」として残し、反面教師として今後の戒めにすべきではないでしょうか。とかく臭い物に蓋をするだけが能ではありません。

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