読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1993年9月発行 広報よみたん / 12頁

読谷山風土記(32)唐船小堀(トウシングムイ) 渡久山朝章

 唐船小堀(トウシングムイ)とは、唐船の停泊地のことで、陸地に近い海や川の深みになったところに多いようです。
 昔の沖縄の海外交易は、東南アジア方面との通商も含めて、すべて唐商い(トウアチネー)と呼んでいたようです。そしてその貿易船のことを唐船(トウシン)といい、その泊地を唐船小堀と呼んだわけです。
 写真は長浜の唐船小堀と呼ばれた一帯で、海中に潜水艦みたいな岩が見えますが、その後ろが唐船小堀だったと言われています。
 現在では土砂が堆積して、停泊地のおもかげはまったく残っていませんが、昔はかなりの深みがあったと伝えられています。
 『読谷村誌』二一一ぺージの多和田真淳論文「長浜丘陵の焼物」には次のように書かれています。
「察度王の初め宇座の「たちよもい」が唐商(トー・アキナイ)をやる前、すでに一三世紀頃には長浜、瀬名波等を領有する按司がいて長浜港を中心に外国貿易が営まれていたのである。その頃の部落は長浜丘陵から残波岬の根元までの丘陵地全体を占領し如何に当時の長浜港が殷賑を極めたか物語っている」
以上の記述からしますと、長浜港、つまり長浜の唐船小堀は、その地方の豪族によって行われていた私貿易の根拠地であったと言えましょう。
 一三七二年(明の洪武五年)になって、琉球の中山王祭度は初めて明(中国)の皇帝に自分は臣(家来)ですという親書を送り、貢ぎ物を贈ります。これを進貢といい、進貢のお使いを乗せる船を進貢船(しんこうせん、あるいはチンクンシン)と言います。
 察度王の最初の御名代(王の代理としてのお使い)は、わが村宇座のタチヨモイ(泰期)です。泰期が読谷の人ですから、彼は長浜から明(中国)へ出たという人もいますが、そのようなことはないと思います。ということは、いやしくも中山王の御名代です。家来も多くいたでしょうし、準備も大変です。その上貢ぎ物には馬も含まれていたのです。どうしてわざわざ読谷に来て長浜から出港しなければならなかったのでしょうか。
 どう見ても泰期は、王城に近い牧港から出港したと考えるのが順当だと思います。
 唐船小堀(トウシングムイ)といえば、比謝矼にもあります。現在ダムになっている近くで、こちらは記録にもあります。蔡氏渡久地家の家譜に「尚賢王世代、崇禎十六年、小禄親雲上良宗共任唐船作事奉行、於読谷山間切大湾港創造焉」とあります。
 崇禎十六年(一六四三)に(渡久地家の人が)小禄親雲上(ぺーチン)と共に唐船を作る奉行に任命され、読谷山の大湾港で唐船を作ったということです。ここで唐船を作ったのなら、作った船を浮かべる泊地も必要です。そこを唐船小堀と呼んだのでしょう。

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