『読谷村誌』によりますと「(読谷山小学校では)就学児童が著しく増えたため、明治二十八年(一八九五)には渡慶次および古堅に分校を設置するようになった」とあります。しかし始めの頃は校舎はなく、広い民家や村屋(今日の公民館)等を借りた仮教場での授業であったと思われます。
明治三十四年(一九〇一)に至り校舎建築が行われ、十一月三十日には落成式が挙行されています。たかが分校の校舎落成式と思われる向きもありましょうが、当時としては大変な出来事であったようで、新聞は落成式の様子を大々的に報じています。要約しますとおおよそ次のようになりましょう。
「午前十一時、撃析(拍子木)の合図とともに千五百余名の生徒は整列し、来賓等を迎え、開式の辞に続いて君が代斉唱、吉岡校長の勅語奉読、そして式辞や祝辞と続きます。
来賓は県の小川視学官や朝武士中頭郡長といったような人たちが顔を並べています。
余興として高等科の柔軟体操や六百人余りの尋常科生徒の演技が雨の中で披露され、さらに祝宴に移ってからは各字の青年たちが泥んこになりながらも角力を続け、午後五時に祝賀会は終わったとあります。ちなみに、この日に各地から集まった老若男女は五千人にも及び、校庭は立錐の余地もなかったとも書いています。
翌明治三十五年(一九〇二)四月一日、独立が認可され、山城五郎校長が若任し古堅小学校が誕生いたします。
古堅小学校の歴史の中で特筆されるべきことは、沖縄で最初に学校後援会が結成されたことでしょう。
大正二年(一九一三)第二代校長成富敬吉は村長とはかり、校舎落成祝賀会を簡素に済ませ、剰余金で設備・備品の充実を考えました。ところが残ったお金は思ったより少なく、設備費どころの騒ぎではありません。
そこで校長は、この剰余金を基金とした学校後援会設立を計画し、校区の区長・議員・有志の人々の賛同を得て学校後援会(PTAの前身)を創設しました。これは実に沖縄における学校後援会の始まりなのです。
大正七年(一九一八)には高等科を設置して古堅尋常高等小学校となりますが、昭和十六年(一九四一)になって教育法が改正され古堅国民学校と校名が変わっていきました。
そして昭和十九年、独立混成第十五聯隊工兵中隊・同速射砲中隊、輜重兵第二十四聯隊第五中隊等の駐屯で学校は軍に明け渡され、沖縄戦とともに戦火で壊滅しました。
写真は昭和十三年(一九三八)に新装になった校門で、門柱は古堅南小学校に保管されています。手前右側に見えるデイゴの大木は、現在比謝川ガスの裏手に残っており、根を包んでいた石囲いや排水溝等も掘り出されており、昔の面影をしのぶことができます。