三月十一日午後、役場の閉庁間際にマスコミから『読谷補助飛行場が返還される』とのビッグニュースが飛び込んできた。その後、ニュースは刻々とテレビやラジオで大々的に報道され、村内外から大きな反響を呼んだ。
報道の内容は、十一日東京で開かれた日米安全保障協議委員会の次官会議で、来日中のウィズナー米国防次官が読谷補助飛行場の返還問題について『近い将来進展が期待できる』『次回の次官協議の時にはこの問題は議題にならないだろう』と、米側が読谷補助飛行場の早期返還の意向を表明したというもの。
この報せを聞いた山内徳信村長は、喜びの表情を見せつつも直ちに担当職員らに情報の収集を指示し事実の確認を急いだ。そのような中、矢継ぎ早にテレビやラジオから報道される”読谷補助飛行場年内にも返還”のニュースを見るにつれ、その時までに慎重に慎重を期していた山内村長も、いよいよ返還が間近に迫っていることを実感した。
この報道により、マスコミ各社(新聞記者)が村長に記者会見を申し出、きゅうきょ午後七時過ぎから記者会見がはじまった。
会見の席上、山内村長は「喜びを表す言葉が見つからない」声を詰まらせ、しばし絶句。そして、朗報の喜びを噛みしめるように語った。
「今日のくる日を待っていた。会議の中(日米安全保障協議委員会の次官協議)で、読谷補助飛行場が近い将来返還できるというアメリカ国防次官のコメントに接し喜んでいる」と話したうえ、「読谷補助飛行場の戦後処理問題の解決は読谷村民が長年訴え続けた懸案事項であった。日米外交ルートで返還の方向づけがなされたことは三万三千村民にとってこのうえない喜びである。返還に向けた闘いが長く苦しかっただけに胸がいっぱいで、言葉ではとても表現できない」と目を潤ませた。
また、読谷補助飛行場の返還が具体化してきた次官会議の結果について、山内村長は「戦後五十年を前にして、やっと読谷飛行場の問題解決へのスタートラインにつけたことは日本政府の努力とアメリカ政府の理解によるもので、時宜を得た結論だと思う」と評価。そして、今後の対応については「読谷飛行場転用基本計画を基に、返還にそなえての受け皿づくりを推進していく。国や県ねどを含め、いい方向づけをするための具体的な話し合いをしていきたい」と語り、更に「自主的・主体的・創造的に計画を進め、跡地に教育、文化、政治、行政産業など村民すべての活動拠点を作り、読谷の地域特性を生かした”黄金の花咲くむら”をつくっていきたい」と述べ、読谷補助飛行場の戦後処理への実現に向けて夢をふくらませた。
飛行場用地の返還問題
読谷飛行場は昭和十八年夏から翌年の暮れにかけて造られた戦時用飛行場であった。
国家総動員法的な非常事態勢の中で、「戦争を勝ち抜くため」という大義が強調されて、地主に有無を言わさず強制的に接収した。旧日本軍は「目的(戦争)が終われば土地は返す」と口約束したが、戦後は米軍基地となり、今日に至ったのであります。
読谷補助飛行場でパラシュート降下訓練が実施されるようになってからは、事故も多発し、昭和四〇年六月、自宅の庭で遊んでいた小学五年生の少女の頭上にパラシュートで投下されたトレーラーが落下し少女が圧殺される事故など、当時の村民の恐怖のどん底に陥れ、県民を震撼させた。復帰前から今日までの米軍パラシュート降下訓練による施設落下事故は数多く発生し、演習の度ごとに村民の生命と財産は絶えず危険にさらされ続けてきた。
読谷飛行場用地は沖縄県が日本復帰したにも関わらず、問題は解決されないまま二十二年の歳月が経過した。
戦前の旧日本軍の土地接収に始まり、戦後は米軍基地となったのである。
こうした背景から昭和五一年二月十四日に「読谷飛行場用地所有権回復地主会」が結成され、読谷補助飛行場用地の返還を求めた度重なる要請や陳情が繰り返されてきた。
このような経緯と背景から、「パラシュート降下訓練場の早期廃止と同用地の全面返還」を訴え続け、また、事故ある度ごとに米軍や日本政府に対して強力な抗議・要請行動を展開し、「読谷飛行場の返還なくして二十一世紀の読谷村の発展はない」と強い態度で日米両政府関係機関に返還を迫ってきた。
読谷村民の願いは、遂に山内村長を”米国政府への直訴”へと駆り立て、村長は太田県知事らと共に平成三年七月と平成五年五月の二度にわたる渡米を行い、米国政府の関係機関や議会関係者及び軍当局に対して読谷飛行場問題解決への理解と強力を訴えた。
この訪米直訴の成果は、いよいよ現実味を帯びてきた。
沖縄の基地問題で来日したラーソン米太平洋軍司令官は十二月一日、在日本軍大使館での記者会見で「二、三ヵ月内には沖縄住民や日本政府と米軍の妥協案を出したい」と述べ、年明けにも同問題で動きがあることを示唆。これを受け平成六年二月二八日、在沖米軍基地問題の解決のために訪米した米山市郎防衛施設庁長官は、米国防省と国務省高官と会談した。その会談の中で米高官らは読谷補助飛行場返還問題に言及し「返還の方向で検討してみましょう」と述べ、米側として初めて読谷補助飛行場の返還に積極的な姿勢をみせた。
そして遂に、三月十一日、フランク・ウィズナー米国防次官と畠山防衛庁事務次官出席の日米安全保障協議委員会で、ウィズナー次官が「読谷補助飛行場の返還問題については近い将来進展が期待できる。次回の次官協議の時にはこの問題は議題にならないだろう」と、早期返還の見通しと米側の意向が表明された。
接収から約五〇年、日米合同委員会でパラシュート降下訓練場の機能移設が合意(昭和五五年十月)されてから十四年、長い苦難の道程を経ててやっと読谷補助飛行場用地が基地から開放され、返還される方向づけがなされた。
私たちは、今後も村民が心を一つにして一致協力し、読谷補助飛行場の戦後処理問題の解決に努めてまいりましょう。