夫の伝蔵は大宜味村高里の出身、十八歳で叔父の稼業であった馬車屋(運送業)を継ぐため比謝矼にやってきた。あっさりとした性格に元気者で、青年団長もやる評判の好青年であった。
二十年一月、夫の郷里へ避難
沖縄戦を前に日本軍の沖縄進駐で馬車を含めほとんどの資材は泡瀬の日本軍に徴用されていた。沖縄に戦争がやって来る、その伝蔵の意識が家族の大宜味への疎開を早めさせた。そこには伝蔵の母が暮らしていた。
でも、家族全員が一緒というわけではなく、長男と長女は学童疎開船で宮崎へ、次女三女、生まれたばかりの次男に秀子の父や親戚の数人が加わった。
昭和二十年三月、伝蔵にも「赤札」がきた。馬車などの徴用に応じ、本人も軍役に就いていたことで入隊しなくてもよいということであったが、字の警防団班長ということで出征しないわけにもいかず、登川の「石部隊」に入ることになる。そのことを知って秀子は三月二十三日出征前の夫に会うために山原から帰ってきた。しかし、三月二十三日は米軍による本島上陸前の大規模な空襲、艦砲射撃が始まる日である。そのことを知らず、泡瀬まで肉などの食料を買い出しに出かけた。大空襲はそこで体験した。翌日、比謝矼へ戻り山原行きの準備を進め二十五日子ども達の待つ大宜味へ向かった。夜に移動し昼間は隠れ、二十七日朝ようやくたどり着いた。
四月二十八日ごろ、米軍が大宜味村の塩屋に上陸、母だけを残し秀子ら家族は山中に避難する。そこには避難者のための小屋を作ってあったが、秀子の父はさらに山奥に小屋を作ってくれてそこに入った。しかしながら、避難小屋での生活はたいへんで、シラミやかいせん(伝染性の皮膚炎)に悩まされ、山を降りることにした。
山を降りた
もう一つの理由
秀子らが山を降りることにしたのにはもう一つ理由があった。それは、「アメリカ兵は、老人や子どもには何もしない。」という確信を持っていたことである。ある日食べ物を取りに山を降りると、米兵の家回りに遭遇した。彼女はとっさにトイレの中に隠れて様子を見ていた。家の中にいる母も無事だし、周辺の子ども達に悪さをするでもなく、特に銃撃戦もない。そのことを直に見ていたこと、さらに米軍は北部の山間地域に上陸空襲前から「婦人、老人、子ども達は山原に逃げておきなさい」という内容のビラが撒かれていたと聞いていたのである。しかし、山を降りてから、生後六ケ月の次男は栄養失調もあってか終戦を待たずに亡くなってしまった。
忘れられない
従兄弟たちの温情
終戦後、読谷村に戻ろうと大宜味を出た。まず石川の捕虜収容所に行き一年半暮らす。その間に宮崎に疎開していた二人の子どもと再会した。そして秀子の両親の出身地である楚辺へ戻るが、そこで伝蔵の死を知らされた。浦添の前田で戦死したと記されていた。失意のなか米軍の基地建設のため楚辺地域が再接収されると生活のあてを求めて那覇へと出た。
終戦直後からの生活を振り返ると楚辺の従兄弟たちが実によく面倒を見てくれたことが忘れられないし一番感謝している、あの従兄弟たちが親身にやってくれなければ、女手一つで子ども達を育てて行くこともできなかっただろうと語った。そして、一番残念なことは、伝蔵が今の沖縄、豊かになった沖縄を見ることなく、若くして他界してしまったことだと話しながら目頭を熱くした。今では、毎朝仏壇にお茶をあげながら、「今の沖縄を見れずに残念だね」と生きている人に話しかけるかのようにするのが日課になっていると言う。ここにも一つ癒されない心の傷が残っている。(文中敬称略)
=記念事業特別取材班=