読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1995年10月発行 広報よみたん / 11頁

【見出し】「連載」沖縄終結50周年記念企画 「私と沖縄戦」名城幸子(79歳)楚辺2116番地の1 -7- 戦前の教育 辺野喜国民学校時代の思い出

 私は昭和八年に県立第二高等女学校(現在の那覇商業高校のあたり)を卒業して、県の養蚕試験場(那覇市垣花)の勤め農家に出向いて養蚕の指導などの仕事をしました。
 その後補充教員として昭和十七年に読谷国民学校(現在の福祉センター付近)に勤めるようになりました。
 当時の教育制度は、国民学校の一年から六年生までが義務教育でその上に高等科が二年生までありました。
 校舎は瓦ぶきで二人掛けの机や腰掛け、黒板もあってなかなか立派なものでした。私は三年生を担当していたのですが、教科は国語、算術(数)理科、社会(地理、歴史)、修身、書き方(書道)、体育、音楽でした。軍事教練はなかったのですが、昭和十八年からは奉仕作業といって草刈や堆肥づくりなどをやりました。
  歴史の授業では皇室、天皇の歴史を中心に戦国史や武勇伝が主で、地理では各県の名産や産業、観光名所、さらに天皇との係わりで伊勢神宮や靖国神社など、とにかく徹底した暗記中心の教育でした。五年生からは教育勅語が指導されるのですが、天皇は日本の神様、一番偉い人との扱いで「朕思うに」と発声する前には直立不動にならなければならず、少しでも遅れると叱られるといった状況でした。
 正月には三教室ぐらいの壁を取り払って講堂にし、全児童が集まって「君が代」と正月の歌を唄い、拝賀式といって天皇の写真に最敬礼をするのですが、子ども達は頭を上げることが出来ないので、ほとんどどんな写真だったか記憶がないほどだと思います。その後、校長先生が教育勅語を読み上げ、式を閉じて帰宅し、正月を祝う。天皇誕生日には「君が代」に続いて「天長節の歌」というのを唄うのです。「今日の良き日は大君の生まれ賜いし良き日なり」といった内容だったと記憶しています。現在の建国記念日は「起源節」、「文化の日」は「明治節」といって年間を通して天皇に関連した行事が結構ありました。起源節には「君が代」の他に「起源節の歌」を明治節には「明治節の歌」というのを唄いました。天皇誕生日には紅白の饅頭が配られるのですが、昭和十九年に辺野喜国民学校に赴任してからは、お菓子屋さんがないために先生たちで饅頭を作りました。とにかく徹底した皇民化教育の毎日でした。
 辺野喜では一人で民家を借りて生活していたのですが、とにかく野菜がない。学校を終えると海岸にニガナを採りに行くのが日課でした。二日連続の休みがないと読谷には帰れないのですが、たまに帰って野菜をお土産に戻ると大変喜ばれました。子供たちの弁当も竹で織った小さな籠の中にそれこそ小さな芋が三個ほど入っているといった状況で食料難は厳しいものでした。
 ある日こんなことがありました。近くの海で日本軍の艦船が米軍の襲撃を受けて沈没したのですが、いろんな物資が海岸に流れ着くわけです。中には衣類が入っているのがあるとそれを全部きれいに辺野喜川で洗って軍に返納したのです。また、畑中少蔚という人が石部隊(嘉数)から派遣されて奥(国頭村)の部隊に行く途中で私のとなりに投宿することになり夕食のお世話などをしました。翌早朝、出発前には置き土産にと米を二升ほど残していただいて、ほんとに嬉しい思いでいっぱいでした。その方からは今でも年賀状が来たりします。
 戦後五十年、日本人って「井の中の蛙、大海を知らず」だったんだなと今は思います。歴史の時間で教えるのは戦国時代のこと、自分の利益のためには簡単に人を殺し、天下を取ったと英雄扱いする。教師である私たちも何が原因で戦争を起こし、何を求めているのかも知らされず、ただ神風が吹いて勝つとしか信じていなかった。悲しい歴史だと思います。
=記念事業特別取材班

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