読谷村には、戦後米軍に基地として接収されたため自らの古里に帰れない地域がある。その一つ嘉手納爆薬庫内にある長田について語っていただいた。
名嘉真朝徳氏は長年長田区長として活躍され、今年度「ふるさと発見事業」と題して旧長田の民俗地図の作成を「ノーベル平和賞を夢みる村民基金事業」として取り組み、子どもたちから老人まで軍用地内への立ち入り調査を行い、この程完成報告会を終えた。
読谷村に在住する長田の人々だけでなく、他市町村の長田出身者も含めて参加して頂いて本当に良かった。私たちの世代までは昔の長田を知っているが今の子ども達は知らない。今の内に復元しなければ永久に忘れられてしまうのではないかという不安があったし、昨年の「字別構想」作成のための懇談会は本当にいい機会を作ってくれたと思う。
集落のほぼ中央を南北に流れる長田川をはさんで西がシルジュー、水車がある付近が東組(ミジグルマー)そして嘉手納の久得に隣接したところが石嶺組(イシンミ)と呼ばれた。一番最初の開墾の時期は定かではないが開墾後フィリピン等の南洋に移民し、その後国頭や北谷等からいまの長田区民が土地を購入して入植した。とにかく古屋敷がいっぱいあった。山から流れ出ている水があり、小さな支流を形成しその小川に添って家があった。イシンミからミジグルマーにかけて、さらにシルジューの長田川沿いには田圃が広がり二期作で米が取れた。旧暦二月ごろに田植し七月までには収穫、八月には又植えて十一月ごろ収穫した。シルジューではお茶もあって、大山や牧志、糸満からも仲買がやってきた。後名嘉真(屋号)はショウガを専門的に生産し出荷していた。家畜はほぼ全家庭で飼われていた。絹を作るための蚕棚もあったし、山には桑畑もいっぱいあった。ミカンやバナナは闘牛大会や運動会で行商した。その他サトウキビや田イモもあり、川に入れば魚やうなぎ、エビ、カニがいてほとんど食べ物に不自由しない自給自足の生活が出来た。
小さい集落だけに、田植や稲刈り、砂糖作りなどはほとんど隣組で共同作業であった。このユイマールの精神は子どもの頃から植え付けられていたように思う。国民学校時代の夏休みはみんなで大豆を収穫した後の各々の畑を耕すことが四年生位までの仕事だったし、五年生からはボーシクマー(帽子を編む)を一緒にやるのが日課だった。ボーシクマーの現金収入は当然家計の中に入った。今でもユイマールは残っていて、たまに誘い合わせて畑を手伝ったり、川魚を取りに行く。そうした伝統がエイサーにも発揮され、今でも区民全体で踊る。中には六〇歳を過ぎても現役で頑張っている人がいる。
戦争が近づいて日本軍への食糧の供出などがあって大変な状況になってきたなと感じた。ようやく生活も楽になりかけていた頃だった。戦争がなければあの頃のように、あの環境の中で生活していただろうなと思うと悲しくなる。
昔のイメージはほとんどない。辛うじて水車のところが戦前の様子をとどめている。米軍のブルドーザーで地形も変わったし、イシンミは田畑も湧水も埋められてしまっている。
みんなで現地調査をした時に「清らかな流れ美しき古里いつの日かここに帰らん」の碑を立てたが、返還されれば一番に帰りたい。老後はあの自然の中で送りたい。それが今の夢なんです。
=記念事業特別取材班=