読谷の民俗芸能42 劇 (1-1) 史劇 今帰仁由来記
明治以降の芝居小屋、劇場などで演じられた演劇のことを、時代劇、史劇、壮士芝居などと呼んでいました。
「広報よみたん」では、歌劇、狂言を除く演劇のことをはば広く「劇」として分類して、ご紹介していきたいと思います。
さて、字伊良皆には、史劇「今帰仁由来記」が伝承されています。字伊良皆で、いつ頃から演じたかは分かりませんが終戦直後、読谷中学校敷地内の傾斜地を利用して上演されています。その後、中断していましたが、平成十六年に復活上演されました。
あらすじは次のとおりです。
今帰仁城は、城主のよい治政のおかげで安泰に続き、若按司鶴松もすくすくと成長し、城下の人々も平和に暮らしていた。ところが、家臣の本部太腹は欲望が高じ、宴の席で長刀踊りの最中に城主を斬りつけ城を乗っ取ってしまう。鶴松は、家臣の取り計らいで逃れ、岳原と名を改めて読谷方面に落ちのびる。砂辺殿内という家に身を寄せている折、ある老女が神のお告げであると、砂辺殿内の一人娘真玉津と夫婦になるよう話を持ちかけてくる。二人の手には、それぞれ半月の印があり、二人合わせて満月の形になるというのである。二人は生まれる前から夫婦になる定めがあった。
それもつかの間、家臣の一人が砂辺殿内へ岳原を迎えに来る。岳原は二、三ヶ月のいとま乞いをして砂辺殿内を後にする。ところが土地の侍、喜舎場が真玉津に横恋慕をしてしまった。近くの寺の座王に計略を持ちかけて「岳原は川に落ちて死んでしまった」と占いをさせ、真玉津母娘を納得させようと迫るが、その計略を見破った真玉津は逃げる。なおも追いかけてくる喜舎場は、大ハブにかまれて死に、真玉津母娘は難を逃れる。
一方、本部太腹の家来が妖術の使い手であることを知った岳原は、本部太腹の別の家来である屋嘉が、妖術除けの手鏡を持っているとして屋嘉の娘に取り入り、みごと手鏡を家臣に手渡すことに成功する。実は、その屋嘉家には真玉津が奉公人として住んでおり、岳原との再会を果たす。そこで岳原は、自分は今帰仁城の若按司であると明かす。
いよいよ、本部太腹を討ち果たす機は熟し、岳原一行は今帰仁城に攻め上る。案の定、妖術に悩まされるが、手鏡によって妖術使いも本部太腹も退治し、今帰仁城に戻り、真玉津母娘を迎え入れる。(次回につづく)。
文・沖縄藝能史研究会会員 長浜眞勇