読谷の民俗芸能 43 劇 (1-2) 史劇 今帰仁由来記
「今帰仁由来記」は、明治四十年頃、渡嘉敷守良が琉球史劇として脚本を書き下ろし上演しています。当時の新聞には「琉球古事中高評を博した」と評されていますので、相当な人気番組であったことが伺えます。
さて、明治三十五年三月の琉球新報に「北山の由来」として「今帰仁由来記」のもとになったと思われる記事が出ています。
前号と異なる主な箇所だけ述べますと、「岳原は、当初恩納間切山田大主にかくまわれるが、本部大主の追手の探索が厳しく、北谷村の砂辺子に落ち着く。真玉津は、岳原と別れた後、屋良大主の婿である喜舎場に言い寄られ読谷山間切渡口村の親泊翁に助けられるが、そこも危うくなり、長浜村の砂辺という親族を頼る。やがて悲しみにくれた真玉津は読谷山美崎に身を投げる。おりしも船遊びをしていた屋嘉大主に救われる」という下りがあります。
また、真玉津母子は、岳原の無事を祈るため嘉手納村の奇桃院という寺に立ち寄った、と記されています。
この「北山の由来」は、今帰仁城の歴史のなかで中北山と呼ばれる時代にあたり、およそ七五十年前の出来事だと思われます。中北山は、その後、惟尼芝(はにじ)に亡ぼされ、後北山と呼ばれます。
現在、読谷村には、中北山に関わる場所が残っています。岳春の墓・泊城(字渡具知)、徳武者(字大木)、ティラガマ(字都屋)、砂辺子の墓・ウフイナグヌメー(墓)・按司墓(字長浜)などです。北谷町字砂辺は清明のときに砂辺子の墓を参拝しています。
これら、歴史民俗に関わると場所を尋ね歩くことも舞台鑑賞の楽しみ方につながります。
字伊良皆では「今帰仁由来記」の復活に向けて、稽古に励んだようです。踊りあり、笑いあり、活劇ありと見応えのある演技をこなしています。つくづく、各地域には役者がそろっていることを実感致します。
文・沖縄藝能史研究会会員 長浜 眞勇