読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1976年10月発行 広報よみたん / 18頁

1972年7月号 ヨミタンは毛遊びの元祖 与那原朝英

一九七二年七月号
ヨミタンは毛遊びの元祖 与那原朝英
“多幸山ーヘーレーどころ 喜名番所に泊まらなやー”と歌の文句にもあるようにその昔のヤンバル旅は、多幸山が難所であったらしい。
 ところが、時代は変わってアメリカ世になったので(といっても来る五月十五日にはヤマト世になるが)こんどは逆に反対側の方向がコワイ地点になっているというのは、ヤンバル街道を南に走っていると多幸山あたりまでは割りと純粋な沖縄のにおいがする。が、勾配坂を登り喜名部落にさしかかるとカ
デナ基地がわがもの顔にふんぞりかえり急に騒音が耳をつく。車の交錯もはげしく神経はピンと張り、空からトレーラーなどが降ってこないか、と気になる。
 戦前はのどかな純農村で平和そのものであった読谷山であったが、いまはどうだろう!
村の八○%は軍用地になり爆音、外人犯罪などの基地公害になやまされ「上イ口説」で有名な残波岬もデイトもできないオフ、リミッツの射爆場と化し、戦前のユンタンザ(読谷山)を知るものには、まるっきり変貌している姿に心をいためる。
 いつのことだろう!あの耳をつんざく爆音も消え外人にもおびやかされないで、若者たちは、ゆるりとラブロマンのハナをさかせる平和なユンタンザになる日は。
 さて、落下傘の降下演習などで踏み荒らされている読谷の野山も古き良き、時代には、ユンタンザニーセー達や、アングワ(乙女)たちが円陣をつくって三味をかきならせて、チュイナー舞ーラセーして遊び、歌や踊りにあそびつかれたあとは機組かのカップルにわかれ比謝川のほとりや長浜の”サングワチ毛”あたりで恋を語らい愛を誓いあったものであろう。
モーアシビーといえば民謡の”越来ーヨー”に歌われている越来間切や”太田バンタ毛遊び、歌すしや田佐原チル小、三味線小やたしかようがイウサ小”なんて歌われている具志川あたりか、そのメッカだったとも思えるが、それより以前にユンタンザのほうが、その草分けであったような気がする。
その理由はーー。
「歌と三味線の昔はじまりや、犬子ねいがりの神のみ作」という古歌がある。歌意は説明の必要もなかろうが、この赤犬子は読谷山楚辺の部落ではいまでも毎年九月二〇日には赤犬子の祭りがおこなわれている。
それに、読谷の有名な花織手巾は美乙女たちの肩や髪にかける装飾用としてもちいられもので、色も赤、黄、緑と、文字とうおり色とりどりのキレイなもの。それは乙女たちのアクセサリーであったが恋しい、愛しい彼氏におくったりした、言うなればユンタンザ乙女の情熱をおりこんで作ゃた花染の手巾で愛の絆を結ぶロマンの糸であった。いま郷土民謡界で大活躍の歌い手山内昌徳御大をはじめ津波恒徳、松田永忠、当山達子さんなども揃って読谷の出身赤犬子の時代からいままで読谷は歌の島、三味の島といったところ歌と三味線の昔はじまりーーー花織の手巾ーーーー民謡どころ、これだけの歴史と実証を考察すると越来、美里や具志川あたりより、やはり読谷が毛遊ぴの先輩というか、元祖であったように思われる。屋良主席のお父さんや古堅村長のお婆さんなどもひょとしたら毛アシビーカシラであったかもしれない。

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