前回「泊城」の項で紹介した「丘春と北山城」のことについては、紙幅の都合でごく簡単に述べるにとどめた。
そのことについて更に興味をお持ちの方は、先に出版された『読谷村史・第二巻 資料編Ⅰ 戦前新聞集成上』の六十九ページ、無我生による「本島の名所古跡(七)」をご覧いただきたい。
物語は発端から終末に至るまで割と詳しく書かれており、波乱に富んでいて大変面白い。
丘春が泊城に身をひそめていたということはないが、彼の妻子が渡口村の親泊翁という者に助けられ、その家にかくまわれていたということにはなっている。
これを書いた無我生は落書きに「此物語は何時頃の事やら確とは分からない」とし、「或は又後世の捏造にかかる全くの小説であるかも知れんのである」とも言っている。
このような伝説や物語あるいは野史ともいうべきものは、得てして大同小異または同工異曲で、けだしそうしたことがまた伝説や物語の特徴かも知れない。
ところでこのような伝説や物語ではあっても、その中には何らかの真実性もしくは願望等が含まれており、それらに託した人々の思い等々も潜んでいるのではなかろうか。
琉球の三山時代、北山に動乱が起これば落人たちの逃れる先は中山の領域内だろう。 そして中山の版図までは討手も押しかけることは出来なかったはずである。
ということで北山と接する読谷山には、そのような落人たちの隠れ場と伝えられる場所が少なくない。
大木児童公園内の東北に、「徳武佐」と称する祠がある。
大木集落の背後に位置しているが、そこを訪ねるにはむしろ県道六号線から入ったほうが近くて楽でもある。
コンクリート造りの堂々とした堂宇の右手には、この祠の由来を書いた碑が建っており、それには「徳武佐碑」として次のような記述がある。
「今から六百年前三山戦国の時代中今帰仁按司戦に追われて此処にて身を遁る其の後当地方にて過し帰域す古来徳武佐のお宮と称し崇拝す(毎年旧九月一三日参拝)一九六四年旧九月一三日」
堂宇は大岩を背にしており、かつてはここの岩陰は格好の隠れ場所だったに違いいない。「毎日旧暦九月に、各地から中今帰仁按司の子孫が参拝にくるが区民も救世の神としてあがめている」と読谷村誌にはあるが、さらに同誌には「昔、宜野湾大謝名の比嘉に若い夫婦がいた。
互いに愛しあっていたが、十年近くも子宝に恵まれなかったため、離婚話がもちあがった。そのとき徳武佐に詣でると子供ができるという話を耳にし、若夫婦はさっそく徳武佐を参拝した。
すると一年後に男の子が生まれたとの伝えがある」とも見える。参拝者の一人に訊いてみると、徳武佐は救世の神・子授け神のみならず、除難招福・家内健康・繁栄の御利益もあるということである。