僕の母がいなくなってもう三カ月。朝学校に出かけて放課後部活をし、夜遅く家に帰ってきてくつろいでから寝る……・。いつもと変わらない毎日が続いている。人前では開き直って明るくふるまっているけれど、それは母のことを忘れようとしているからだ……。
あの日は二月十四日、部活をしているときに僕は親戚のおじさんに呼ばれ、「君達のお母さんの体調が思わしくない、だからすぐに病院にいかないといけない。」と言われ、すぐに車で病院へ向かった。僕はまさか母が危篤だなんて思ってもいなかったから、姉と弟を乗せた車の中でも、部活の事とか学校の事とか、いろいろ話をしていた。
病室の外の廊下、待合室には母や父の知り合いの人がたくさん立っていて、目や鼻を真っ赤にしている人もいた。「なにかあったのかな」という感じで軽く考えながら病室に入ると「ううう………」「わあ一っ」という泣き声が耳に入り、
「多美ー…、子供達がきたよ一…ほら大志とね、理美とね、大介がきたんだよ…みてごらん…がんばってよ…がんばってよ…。」というおばさん達の叫び声が聞こえてきた。
このとき初めて僕は、母が危篤なんだ、危ない状態にいるんだという事を知り、あまりにも突然の出来事に声すら出せず、なにをすればいいのかもわからずにただ呆然と立ちすくんでいるだけだった。かわるがわる母の手を握り、「お母さん、がんばって」とたえず声をかけ、母が苦しそうに息をしているのを見ていると、なにか心の中の支えのようなものがなくなっていくような感じを覚え、胸が張り裂けそうな気持ちになった。
次の日の十時三十分頃、意識がなかった母の目から涙が流れ落ちたとき、母の鼓動は突然止まった。
「多美子ー。多美子ー。」病室にいたたくさんの人達が次々に母の名を呼び、声をはりあげて泣いている。僕は、どんどん流れ出る涙をぬぐわずに母の顔をじっと見つめていた。(ああ、本当に死んでしまったんだ。)いつまでたっても止まらない涙の中で僕はこう思った。全身の力が抜け、ぼ一とつっ立っていた。
「これからどうずればいいんだろう…。」それからしばらくは、僕は何も考えきれず、途方にくれていた。
通夜から仮葬、出棺、火葬、告別式まで、僕は母と過ごした数々の出来事を回想していた。
母の死から数日後、学校ではクラスのみんが気を使って親の話をしたりせず、がんばれよと声をかけて励ましてくれたりした。母の死を聞いて、まるで自分の事のように泣いてくれた心優しい友達もいた。落込んでいた僕にとってとてもうれしいことだった。友の励ましのおかげもあって、僕は、自分自身をとりもどし、これからどうしていくかを考えることができた。
一度死んでしまった人間はもう再び生き返ることはない。いつまでも母の事ばかり考えるわけにはいかない。母は、僕達子供に、前向きな姿勢を持って大きく羽ばたくたくましい子になってほしい、そう願っていた。たしかに母の死はつらい出来事だった。だからこそ母の死、母の病気との闘いを無駄にしないためにも、前向きに生きていこう。明るく生きていこうと僕は決意した。
それからの僕ぼ、誰に対しても同じように明るくふるまってきたつもりである。何事にも積極性を持って取り組み、周囲との協調を図りながら明るい学校生活をおくっている。友達から、
「お前、明るくなったなあ。一年の頃はあんなに暗かったのに。」と言われたことがある。特に女生徒に対して愛敬を持って接することができるようになったのは大きな変化である。
しかし、母がいなくなってからというもの、人に甘えることが多くなったような気がする。特に女の子にかまってもらいたいという気持ちが強い感じがするのは、相手の女の子に母親を求めているからではないかと思う。まだまだ甘い心を持っている。もっと他人の意志にながされない強い意志を培わなければいけない。
めだたなくてもいい、人の役に立てるいいことをどんどんしていきたい。そして、大きな心を持った強い人になりたいと思う。視野を広くし、広い見聞をもって人に接することができるような人になりたい。これに向かって今、僕は努力している。僕が生きてきた十五年、僕の出会った人は今は亡き母、前向きに生きることのすばらしさを教えてくれた母に感謝しつつ、これからの人生を明るく力強く、前向きに歩んでいきたい。