読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年10月発行 広報よみたん / 5頁

【見出し】ニシユンタンザとの出会い 嘉手納町屋良72伊波剛 

 小学校四、五年生の頃、長浜に親戚がいたので七月のお盆の時には毎年妹三人を連れてお中元を持っていったが、母が行く時の注意は高志保の共同売店前の道を通って行くので、「ニシユンタンザのワラバーターヤ、ウーマクヤグト、石なげたりけんかをやりにくる時には相手にせず、早くにげなさい」と言われたことが、用事をすまし帰る途中石がとんでくるのに会い、走って高志保までにげてきてホットしたことがあり、あとで聞いた話に長浜でも海に石を役げる遊びをしたというし、高志保、波平でも石合戦があった事等、あの当時の子供の遊びのひとつであったとも考えられ、またよそから見知らね者が入った時のおどしでもあったのか、文化が明けていない粗野な時代ではなかったかとあの時代を思い出す事がありますが、終戦後読谷村が移動が始まり学校も開校するようになったので、石川市に収容された私は、大洋初等学校に宇座信篤校長先生の下で働いていた関係で、「一緒に渡慶次小学校の建設開校をやってくれ」と言われましたので、宇座校長先生は戦前も古堅青年学校で終戦までお世話になりました信頼する先生でありましたし喜んで引きうけますと、昭和二三年七月三一日付けで赴任し、敷地は元の渡慶次小学校跡だと思っていたら、当分の間「アカムヤ」で学校を開校するとの校長先生の話を聞いて、集った先生方はビックリ。松の根平担でなく傾斜地もありそこを地均しテント張り机腰掛はベニヤ板で植えこみ式、雨が降ると打ちこんで授業もできずドロンコ教室・なんの教材備品施設もなく、生徒も学習意欲がなく、一、二時間援業をうけたら「勉強やるより残波に行って戦果でもあげに行くのがよい」と、授業をうけずに教室をとび出すウーマク連中がいたが今ではあの当時のウーマクが政界、教育、企業面で成功し活躍している姿を見るとたのもしく思い、再び昭和三四年四月一日付で渡慶次小学校長に任命され、五ヶ年間勤務しましたが、小学生の頃長浜の思い出、終戦後のアカムや学校のテント張、校長として五ヶ年間、ニシユンタンザのウーマク、荒武者との出合い残波岬からおしよせる潮風で叩きつけられた粘り強さ、シンの強さの村民性をつくりあげた事は私にとってニシユンタンザの気風は一生忘れることのできない思い出になり、あれから二十数年後の長浜、高志保、瀬名波、渡慶次、宇座、儀間等のニシユンタンザの各字はすばらしい発展をし、特に長浜の農業用ダム、農地の整備、ミサイル基地だった残波岬はロイヤルホテル等がそびえたち、特に夜の煌煌と輝く夜景は全国一のすばらしい観光名所になり畑は甘蔗と紅イモが植えつけられ調和のとれた残波岬周辺の変り方に感動し、昔の「ニシユンタンザ」はどこにいったやら、流石「人間性豊かな環境、文化村づくり」を目標として村民と共に行政を推進しておられる山内村長さんに今後のご活躍を期待し、毎月「よみたん」広報を読ませていただいている御礼に拙文を送ります。

  嘉手納町屋良七二 伊波 剛

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